無料会員募集中
.社会  投稿日:2026/5/26

相馬野馬追が育てた「ロジ力」:震災復興と高い行政力の背景


執筆者:上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

■本稿のポイント

・2026年5月23から25日にかけ、福島県相馬地方で、伝統行事である相馬野馬追が開催された。

・相馬市役所は、宿舎確保や支援者調整を担い、震災復興・コロナワクチン接種(「相馬モデル」)でも高い実行力を発揮した。

・相馬野馬追は単なる神事ではなく、人・物資・地域を統率する「擬似戦争」として機能し、現代の行政力や地域復興力にもつながっている可能性がある。

 

2026年5月、医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏は、学生や研究所の関係者とともに福島県相馬地方を訪れ、相馬野馬追と東日本大震災後の復興支援の現場を巡った。震災直後に設けられた「星槎寮」や相馬市役所の対応を振り返りながら、筆者は、相馬野馬追の長年の運営経験が、震災復興やコロナ対応を支えた高い行政力・ロジスティクス能力につながっていると論じている。(Japan In-depth編集部)

 

5月23〜25日、福島県相馬地方で相馬野馬追が開催された。平将門の軍事訓練を起源とする伝統神事で、甲冑姿の騎馬武者が疾走し、戦国絵巻さながらの光景を再現する。例年約400騎の騎馬武者が参加し、地域を代表する一大行事として知られる。

私がこの地域と関わるようになって16年目を迎えた。今回で16回目の参加となる。今年は医療ガバナンス研究所のスタッフや学生ら10人余りとともに現地を訪れた。

今回の相馬訪問の目的は、相馬野馬追を見学するだけではない。東日本大震災後、この地域で私たちが続けてきた活動を若い世代に伝えることにもあった。現在、医療ガバナンス研究所で学ぶ学生の多くは、震災当時を知らない世代だ。当時、現地で何が起き、先輩たちがどのように活動に取り組んだのかを、自分の目で見て感じてもらいたいと考えた。

5月23日、中村神社から宇田郷勢の出陣を見送った後、我々は高村泰広・相馬高校教諭と菊地祐介君の運転する車に分乗し、この地域を巡った。

写真)相馬市内を行軍する渋谷健司氏。筆者らと共に相馬地方の医療支援に従事する元東大医学部教授の医師である

撮影)筆者

高村先生は相馬市出身で、震災当時は相馬高校の教員として、私たちの活動を支えてくれた。一方、原町出身の菊地君は、震災後に東欧の医学部へ進学し、卒業後の現在は日本の医師国家試験合格を目指して勉強を続けている。二人とは震災直後から交流が続いており、長い付き合いになる。

まず向かったのは星槎寮だ。東日本大震災直後の2011年4月、私たちのチームと星槎グループが相馬市中心部のさくらビルに開設した宿舎で、運営は星槎グループが担った。

写真)さくらビル。この二階に星槎寮が存在した。
撮影)筆者

現在、星槎グループの中核である学校法人国際学園の理事を務める尾﨑達也氏が「寮長」として切り盛りした。坪倉正治医師らを中心とする私たちの活動拠点となり、多い時には約20人の医師や学生が共同生活を送っていた。

当時の相馬市では、復興需要の高まりで宿泊施設は満室状態が続いていた。その中で星槎寮は、全国から集まる医療者や学生を受け入れ、支援活動を支える重要な拠点となった。夜遅くまで続く議論や交流を通じて人のつながりが生まれ、それが後の相馬復興を支えるネットワークへと発展していった。

写真)2012年7月12日星槎寮にて。筆者らのチームの医師たちが、地元の高校教員と情報交換している光景。右端が高村教諭。

撮影)筆者

この星槎寮の確保を主導したのが、当時の立谷秀清・相馬市長だ。立谷市長は「復興のボトルネックは宿舎になる」と考え、震災直後から外部支援者向けの滞在先の確保に動いた。背景には原発事故があった。多くの大家が避難し、連絡が取れなくなったため、空き部屋はあっても利用できない状況が広がっていたからだ。立谷市長はその事態を早い段階で見通し、先手を打った。そして私たちは、この宿舎を拠点に相馬での活動を本格化させていった。

震災や原発事故からの地域復興で、最も重要なのは教育だ。この地域で十分な教育環境を維持できなければ、子育て世代は地域を離れざるを得ない。人口流出を防ぎ、地域を再生する上で、教育は欠かせない基盤だった。

星槎寮は、その教育交流の拠点にもなった。東日本大震災後、相馬市中心部に設けられたこの宿舎には、全国から支援に訪れた学生や教員、医療関係者らが集まった。ここを足場に、灘高校と相馬高校の生徒たちの交流が進み、震災体験や将来の進路について語り合う機会が生まれた。

写真)2012年8月9日、灘高生の相馬高校訪問。

撮影)筆者

特に、阪神・淡路大震災を経験した灘高校の生徒たちとの対話は、被災地の高校生たちに大きな刺激を与えた。「自分たちも挑戦できる」という意識が芽生え、その後、相馬高校から東京大学への現役合格者が生まれるなど、教育面でも具体的な成果につながった。被災地支援を通じて築かれた人のつながりは、地域の未来を支える力へと発展していった。

この時の相馬高校生や地元の中学生の中からは、現在、私たちと共に活動する趙天辰さんや阿部暁樹君(ともに福島県立医科大学)が育っている。また、当時灘高校の教員だった前川直哉氏は、その後福島県に移住して私塾を開き、現在は福島大学の教員として地域の教育に関わっている。

このほかにも、今回の相馬訪問では、相馬井戸端長屋や、津波被害が甚大だった原釜、磯部集落などを訪ね歩いた。私は車中や現地で、震災直後に地域で何が起こり、人々がどのように行動したのかを説明した。震災から15年が経ち、記憶が薄れた部分もある一方、時間を経たからこそ、当時の出来事をより俯瞰して捉えられるようになったと感じている。

注目すべきは、こうした活動を相馬市役所が一貫して支えてきたことだ。立谷秀清市長(当時)が優れたリーダーだったことは間違いない。ただ、行政は首長一人で動くものではない。立谷市長を支えた相馬市役所の職員たちは、高い調整力と実行力を備えていた。

震災後の混乱の中、市役所は星槎グループや私たち、地元の大家らを結びつけ、宿舎を確保し、様々な課題を調整しながら、6年間にわたり星槎寮の運営を支え続けた。当時の市役所業務は極限の忙しさだったはずだ。その中で、こうした取り組みを実現した意義は大きい。

一事が万事、相馬での私たちの活動は、市役所をはじめとする地元の人々の支援によって成り立っていた。彼らの協力がなければ、私たちは何もできなかったと思う。

では、なぜ彼らは、これほど高い調整力と実行力を備えていたのか。私は、その背景に相馬野馬追の存在があると考えている。

例年、相馬野馬追には10万人を超える観光客が訪れる。一方、相馬市と南相馬市を合わせた人口も約10万人規模に過ぎない。この一大行事を、両市の市役所が中心となり、地域団体と連携しながら運営している。旅行客の受け入れ、人馬の移送、招待客対応など、必要な業務は膨大だ。しかも、これを通常業務と並行しながら、数カ月かけて準備していくという。このような作業を外注することなく、市役所職員が淡々とこなしていく。

両市の市役所職員は合計600人程度とされる。限られた人員で、毎年これだけ大規模な催しを運営していれば、自然とロジスティクス能力や段取り力が鍛えられる。震災後の相馬で、行政が高い対応力を発揮できた背景には、相馬野馬追を長年支えてきた経験の蓄積があったのではないか。

相馬市は、全国でも屈指の「開票が早い自治体」として知られる。過去の衆院選では、全国で最も早く開票結果を確定させ、「全国最速」と話題になったこともある。投票終了直後から一斉に作業を始め、テレビで当選確実が報じられる頃には、ほぼ集計を終えていることも珍しくない。

コロナワクチン接種でも、相馬市と南相馬市の対応力は際立っていた。相馬市では、市役所主導のもと、医師会や病院、介護施設が一体となり、予約、輸送、接種、経過観察までを一元管理した。この体制は「相馬モデル」と呼ばれ、全国から注目を集めた。さらに、相馬市と密接に連携する南相馬市も、2021年春の高齢者接種開始直後に全国トップ水準の接種率を記録している。

こうした高い実行力や調整力の背景には、相馬野馬追に象徴される、この地域独特の価値観があるのではないか。むやみに他人に頼るのではなく、自分たちでできることを地道に積み重ねていく――。その姿勢が、地域に高い運営能力を育んできたように思う。

 

 毎年、地域全体で相馬野馬追という大規模行事を支え続けてきた経験の蓄積が、人を動かし、組織をまとめ、限られた資源で物事を成し遂げる力につながっているのだろう。そうした積み重ねが、震災対応やワクチン接種など、非常時における行政力の高さにも表れているように感じる。

戦いの勝敗を左右するのは、兵の数や武勇だけではない。人や物資を動かし、組織を機能させる「ロジ力」が重要だ。隣接する伊達家と長年にわたり抗争を続けながら、最後まで滅ぼされなかった相馬家は、その現実を痛感していたはずである。だからこそ、相馬野馬追を連綿と続けてきたのではないか。

では、戦乱のない江戸時代になっても、なぜ野馬追は続けられたのか。私は、単なる神事ではなく、相馬藩にとって行政や動員の訓練という意味合いが強かったのではないかと考えている。野馬追は、いわば「擬似戦争」だ。人馬を動員し、多数の関係者を統率し、事故なく運営するには、高度な組織力が必要になる。藩にとって負担は小さくなかったはずだ。それでも継続した背景には、組織運営能力を維持する意味があったのではないか。

何事も自分たちで準備し、地域全体で支える。その伝統は、現代の相馬地方にも色濃く残っている。その象徴が相馬野馬追だ。そして、この積み重ねこそが、東日本大震災や原発事故後の迅速な復興を支えたのではないか。神事として受け継がれてきた伝統が、思いがけない形で現代社会の力になっているのである。

 

■よくある質問(FAQ)

Q1. 相馬野馬追とは何ですか?
A.
福島県相馬地方で毎年開催される伝統神事です。相馬氏の遠祖とされる平将門が、放した野馬を敵兵に見立てて 軍事演習に応用したことが起源とされています。

Q2.福島県相馬地方における東日本大震災の被害はどの程度だったのですか?
A.相馬市は、発生当時、高さ9.3m以上の津波に襲われました。市内の避難者は最大で4545人、相馬野馬追に出演する馬も、約50頭が亡くなりました。

Q3. 「相馬モデル」とは何ですか?
A.
相馬市がコロナワクチン接種で構築した運営体制の通称です。市役所、医師会、病院、介護施設が連携し、予約から接種後管理までを一元化しました。

Q4. 立谷秀清市長はどのような役割を果たしましたか?
A.
福島県相馬市にて、6期24年市長を務め、2026年1月18日をもって退任しました。自身も医師免許を持ち、「助けた人から次の死者を出さない」をテーマに、震災直後から復興へ向けて尽力しました。


(本稿のポイント、リード、FAQの文責:Japan In-depth編集部)


トップ写真)相馬野馬追の「神旗争奪戦」が行われる雲雀ヶ原祭場地で、旗を奪い合う騎馬武者たち

出典)Chris McGrath by Getty Images

 




この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長

1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

上昌広

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."