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スポーツ  投稿日:2015/7/31

[神津伸子]【スコアラー経験が人生を変えた】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 8~


神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)

執筆記事プロフィールFacebook

『磨く人』がいなければ、素材は輝くことが出来ない。

「まずは素材が大事だという事は言うまでもありません。けれども磨く人がいなければ、素材は輝くことが出来ません。磨く人が、情熱をもって、一生懸命勉強して、指導して欲しいです」。(注)
江藤省三が尊敬してやまない王貞治の言葉だ。

江藤は引退後、4年間、中日でスコアラーをつとめた。対戦する両チームのピッチャーが投じた約280球を1球、1球球種などを全て記録していく。内角低め直球ボール、など細かく、几帳面な文字・記号がスコアブックに鉛筆で刻まれていく。
バックネット裏に陣取り、ずっと座り放しでボールから片時も目が離すことが出来ない。

「4年間、ボールを記録し続けた。そのおかげで、さすがに投手が次は、何を投げて来るか、わかるようになった。“読み”の力が、後に指導者になり、ベンチから指示を出す時など、大いに役立つようになった。この経験は、実に自分の人生の中で、大きな財産だと思う」。

コンピューターなどない時代だから、全てが手書きだった。だが、江藤は書くことが、得意だった。苦にならなかった。

それは、子供時代からずっと日記、スコアブック、野球ノートなどを書き続けたことが、大きく貢献していた。当時の大学ノートなどで作成した自作の野球ノートなどは、実に几帳面に美しく記載されている。「自分は血液型がA型ですから」と、笑う。

実は書くことを、江藤に勧めたのは母親の登代子だった。小学生だった江藤に日記帳を買い、「何でもいいから書きなさい」と、手渡してくれた。その母も生涯、日記をつけていたことを「しかも熊本弁そのままで」(江藤)。亡くなってからの、遺品整理で知った。中学生に進学してからは、自分で日記帳や大学ノートを自分で買うようになった。熊本県西部中学時代の野球ノートが、今でも手元に残る。西部の野球部監督は、江藤の父・哲美。実業団チームの八幡製鉄で、ピッチャーとして活躍、その後も野球一色の人生だった父親だ。

この野球ノートの中で、江藤は1957年の同中学の様々な記録を、定規で罫線を正確に引いて表を作り、記録を数字や記号、選手名など丁寧に書き込んでいる。練習試合の相手、大会戦績、打撃記録、投手成績、がそこで記される。一方で、試合経過、戦評、など詳細に文章で書き込まれている。西部時代は、江藤はピッチャーと記録が残っている。地区大会で優勝した際には、最優秀投手賞も獲得した。赤鉛筆で“堂々西部優勝”と“西中江藤、無安打、三塁を許さず”と、赤鉛筆で大文字で記載されている。脇に、カップ、ジュースなど賞品の明細も書かれているのが、中学生らしくて微笑ましい。

その後も、ラジオで流れて来るプロ野球、ノンプロ、東京6大学野球の試合経過を、ラジオにかぶりつきながらスコアブックにしっかりと記載した。当時は東京6大学野球も全て放送されていた。スコアブックには東大―法政、日鉄二瀬―コロムビア、全日本―カージナルスなどの記録が克明に記されている。「東京6大学野球が全試合放送される時代でしたからね。ニュースで、今日の6大学なんていうコーナーもありました。でも、長嶋茂雄さんの立教卒業、プロ入りと共に、少しずつ人気に陰りが見え始めた」。

中学時代のノートの1ページ目には大きな文字で縦書きで、こう記されている。今の姿を暗示しているようで、驚いた。

『教訓 野球技の目的は決して野球選手を養成することでなく人間を作ること 鍛錬公平団体行動規則の遵守目的達成への努力民族の推量などの精神を養うことにある 昭和三十一年五月五日』(原文ママ)

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話をもとに戻す―。

江藤はその後、指導力・技術力を買われて様々なプロ球団でコーチをつとめることになっていく。
プロ野球コーチ時代、その後―

アメリカ・ドジャースへのコーチ留学が大きく指導者としての意識を変えてくれました。「ホメて伸ばす!」。目から鱗の指導方法でした。

1981年、慶應義塾大学の先輩である巨人軍藤田元司監督(当時)の要請で、一軍内野守備コーチとして、ジャイアンツに復帰した。83年まで藤田体制、84年は王貞治監督の下で選手たちを指導した。85年からは、巨人から派遣されて、米国ドジャース(1Aベーカースフィールドドジャース)へコーチ留学。アメリカ式指導法は、目から鱗だった。

米国では1Aでも、とにかく、選手の自主性を重んじる。ホメて伸ばす。長所や得意なところを、どんどん伸ばしてやる。日本のように「ミスをするな」なんて、言わない。それでは、かえって選手が委縮してしまう。
指導者としての意識が、アメリカで大きく変わった。この後の、選手指導に向けて、大変良い経験となったと話す。

1990~92年、再び藤田監督に請われ、巨人軍守備コーチ、95年、千葉ロッテでバレンタイン監督、96年江尻亮監督のもと、コーチ、ヘッドコーチを経て、代理監督も務めた。99年、JOC(日本オリンピック委員会)コーチとして、シドニー五輪を目指し、初めてアマチュア選手を含めて指導した。やはり、オリンピックは特別だと感じた。国の威信をかけて、日の丸を背負って戦うことは、物凄いことだと思った。

2003年、山下大輔監督からお声がかかり、横浜ベイスターズ(現Dena)ヘッドコーチ、二軍監督に就任。

この後、大きな転機が来る。江藤自身、アマチュア野球に大きくシフトして行った。05年、NPO法人ジャパンベースボールアカデミーを立ち上げ、全国の野球少年や、指導者に恵まれない野球人たちを対象に野球教室を開催。元西武の松沼博久・雅之兄弟や鈴木康友などをコーチとして派遣した。正直、彼らのギャラは安くはなかった。プロ野球で、名を成した人たちばかりですから。収支はチャラなら良いかという意識でやっていた。全ては、野球少年たちの未来の夢のために。
また、同年、社会人クラブチーム、横浜ベーブルースを結成、監督に就任した。

さらに、驚きの展開が待っているとは―。

(9につづく。
【“24の瞳”少年・高校球児を指導する男】〜「野球は人生そのもの」江藤省三物語 1~
【誰にでも甲子園はある】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 2~
【教え子の一言に「ふるえた」。】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 3~
【教えは受け継がれてゆくものだから】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 4~
【甲子園春夏出場 父・兄の背中を見て始めた野球】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 5~
【輝く時 慶應義塾大学野球部選手時代】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 6~
【代打の切り札 勝利を呼ぶ男】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語  7~
も合わせてお読みください)

(注)王貞治・「王選手コーチ日誌1962−1969」荒川博著 講談社刊

 

<江藤省三プロフィール>

野球評論家。元プロ野球選手(巨人・中日)、元慶應義塾大学硬式野球部監督熊本県山鹿市生まれ。
会社員(父は八幡製鐵勤務)の四人兄弟の三男として誕生。兄(長兄)は元プロ野球選手、野球殿堂入りした愼一氏。
中京商業高校(現中京大中京)で1961年、甲子園春夏連続出場。同年秋季国体優勝。
卒業後、慶應義塾大学文学部に進学、東京六大学野球リーグで3度優勝。4季連続ベストナイン。

63年、全日本選手権大会で日本一となる。
65年、ドラフト元年、読売巨人軍に指名される。
69年、中日に移籍。代打の切り札として活躍。76年引退。
81年、90年から2度巨人一軍内野守備コーチ。

以降、ロッテ、横浜でコーチ歴任。
解説者を経て、2009~13年、慶應義塾大学体育会硬式野球部監督。
10・11年春季連続優勝。
この間、伊藤隼太(阪神)、福谷浩司(中日)、白村明弘(日本ハム)のプロ野球選手を輩出。
14年春季リーグ、病床の竹内秀夫監督の助監督として、6季ぶりに優勝に導く。

 

※トップ画像:熊本県西部中学時代に記載した野球ノート、しっかりした角ばった文字で、表を作るなどきちんと自らレイアウトした大学ノートに、江藤は克明にと学校と自分の記録を残して、今も美しく残る。

※文中画像:鉛筆で書いた『教訓』は、今の野球指導に繋がる。

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