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スポーツ  投稿日:2016/6/9

カラダをメディア化させるということ


為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)

うちの会社はメディア事業とかけっこ事業の二つに分かれている。そのメディア事業というのは今はクライアントから仕事をいただいて世の中にそれを伝えるというPR的な事業を行っているが、自分なりにこだわりがあってその名前をつけている。

メディアの定義は情報の媒介物だと様々な辞書には書いてある。語源はラテン語のmedium(メディウム)だったそうで、その複数形がmedia(メディア)になるそうだ。狭義ではマスメディアとかソーシャルメディアということになるだろうが、広義で捉えれば身体もまたメディアということになる。

どうして私はメディアというものに興味を示しているかというと、私自身が、どうして問題が起こるのかと考えるより、どうして私はそれを問題だと思うのかと考える癖があるからだ。私の興味はいつもそれ自体ではなく、それをそう受け取ることにある。事実より認識と言ってもいいかもしれない。

人は物語を生きている。言い換えれば文脈の中で人は物事を理解する。物語と出来事が一致して違和感がなく、かつ空気を捉えている時、記憶に残る。人がやるべきことを見つけたという時は、自分の中の何かを見つけたというよりも、人生で起きたことが物語として見え、それがこれからすべきことにつながったのだと思う。ジョブズは点と点をつなげと言っていたが、点を物語の中で捉えろとも言えると思う。

イエスキリストもブッダも、本当かどうかはさておき、周辺で彼らを見た弟子たちがそれを語り継いだり、何かに残すことでこれだけの人の心の中に存在するようになった。今、実体がないということは情報でしかないけれども、情報の伝え方と蓄積のされ方によっては情報はとてつもなく大きなものとなる。

広義で捉えれば、身体はメディアとして外界との媒介物となる。もっと広く捉えると際限がないので身体で閉じてみる。身体を通じて(五感も含めて)得られた情報が脳で統合され痛いとか、涼しいとか認識される。パラリンピアンは義足で触ったものが硬いかどうかわかる。道具が身体化すればそれもまたメディアとなる。

一方で、情報が脳の中のどこかに伝わっていくのだけれど、その中枢を追いかけていくと一体情報を受けるど真ん中がどこになるのかがわからなくなる。情報を媒介して何かが何かに伝わる為には、送り手と受け手の主体が必要になるが、自分の中の脳の中にある受け手の中心がなんなのかがわからなくなる。

メディアは一方的ではなく、いつも双方向的で、相手が自分を好きだということが伝わるところでは終わらず、それを知った時に自分の中で変化が起きる。相手を好きになるかもしれないし、少し戸惑いを覚えるかもしれない。メディアは情報を伝えながら相手を変化させる。また見方によっても何がメディアかは変わっていく。

私自身もまたメディアであり、そもそも走るという行為を通じて何かを受け止め何かを発信していたのだと思う。誰にとっても地面は地面であるが、足の裏でこの地面だと走りやすいかどうかというのが浮かぶ。身体を発達させれば受け取れる情報が変化する。

為末大 HP より)


この記事を書いた人
為末大スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役

1978年5月3日、広島県生まれ。『侍ハードラー』の異名で知られ、未だに破られていない男子400mハードルの日本 記録保持者2005年ヘルシンキ世界選手権で初めて日本人が世界大会トラック種目 で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3 大会に出場。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」 を設立。現在、代表理事を務めている。さらに、2011年、地元広島で自身のランニン グクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップす る陸上教室も開催している。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じ て「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びか けるなど、幅広く活動している。 今後は「スポーツを通じて社会に貢献したい」と次なる目標に向かってスタートを切る。

為末大

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