[青柳有紀]フランソワーズは体を売らなければHIVにかからなかっただろうか?HIV感染の診断が早ければエイズの発症を防げただろうか?〜世界3300万人以上のHIV感染者の70%がサハラ以南のアフリカに
青柳有紀(米国内科専門医・米国感染症専門医)
ある朝、研修医や医学生と内科病棟の回診をしていると、激しい頭痛のために泣き叫んでいる患者がいた。
フランソワーズはまだ20代前半で、3歳の息子がいたが、夫と離婚後、子供と自らの生活を支えていくために、首都キガリで売春婦になることを余儀なくされた。それから数年後のある日、彼女が激しい頭痛に襲われてこの病院の救急部を訪れた時、彼女に下された診断は、エイズ(後天性免疫不全症候群)、および真菌(カビ)の一種によって起こるクリプトコッカス性髄膜炎だった。
この感染症の患者は、脳を覆う髄膜の炎症のために、激しい頭痛や嘔吐、意識障害に苦しむ。治療のためには、抗真菌薬の投与とともに、腰椎穿刺と呼ばれる、上昇した頭蓋内圧を緩和するために脳脊髄液の一部を取り除く手技を繰り返さなくてはならない。クリプトコッカス性髄膜炎の予後は悪く、治療の甲斐なく命を落とす患者は多い。
フランソワーズの容体は、一進一退を繰り返した。ある時、彼女のベッドサイドで、研修医たちと治療方針について話していると、キニアルワンダ語をまだ解さない私に、研修医を通じて彼女が何か伝えようとしていた。
「私の具合がよくなってこの病院を出たら、あなたに、牛を一頭、あげるわ」。
ルワンダでは、牛は伝統的に富の象徴であり、非常に高価な家畜であるばかりか、植民地時代には所有していた牛の頭数で支配者側のツチ族と判断されることさえあった。フランソワーズが牛を所有していないことは明らかだった。彼女は、病の苦しみの中で、私と私が指導する研修医や医学生たちに、彼女なりの精一杯の感謝の意を伝えようとしていたのだった。
「あなたの具合がよくなれば、それで私たちは十分満足です」
私は、研修医を通じて、そう彼女に伝えた。
UNAIDS(国連エイズ合同計画)の統計によれば、2009年の時点で、世界には3300万人のHIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染者が存在している。その約70%(2250万人)はサハラ以南のアフリカに集中しており、毎年130万人がエイズを発症し、死亡している(HIV感染が進行すると、やがてエイズを発症する)。私がかつて暮らした南部アフリカのナミビアでは、当時、成人のおよそ20%がHIVに感染していたが、抗HIV薬の普及が十分でない状況下で、感染者の多くが7年以内にエイズを発症して死亡する状況だった。
現在のルワンダの状況は、当時のナミビアと比較すれば、かなり好ましいように思える。ルワンダにおけるHIVの罹患率は約3%であり、感染者の90%は抗HIV薬による治療を受けられる状況にある。だが、この3%という数字は、公衆衛生の観点からは緊急事態の域を出るものでなく、結核やマラリアといったHIV患者の死亡率を有意に上げる感染症の流行と相まって、特にフランソワーズのような、貧しく、病気に対して知識を持たないような、社会経済的に弱い立場にある人々の命を脅かしている。
フランソワーズはその1ヶ月後、肺炎や胸水など、度重なる合併症のために亡くなった。彼女の遺体は、母親に付き添われて郷里に帰っていった。彼女が体を売らずに済んでいたとしたら、HIVに罹らなかったのだろうか。あるいは、彼女のHIV感染の診断が早ければ、エイズの発症を防げたのだろうか。つい数時間前まで、彼女が横たわっていた空のベッドを見て私は思った。あなたの具合がよくなれば、それで私たちは十分満足だった、と。
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