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.国際  投稿日:2016/8/24

多様性の中の統一 インドネシア独立記念日に思う


大塚智彦(Pan Asia News 記者)

「大塚智彦の東南アジア万華鏡」

8月17日はインドネシアにとって最大のハレの日、独立記念日である。1945年8月15日の日本の敗戦から二日後に初代大統領に就任するスカルノ氏が独立を宣言したことにちなむ日である。独立から71年、約1万3500の島と世界4番目の2億5500万人の人口を擁し、約300の民族が580以上の異なる言葉を使うインドネシアは「多様性の中の統一(ビネカ・トゥンガル・イカ)」をスローガンとして掲げることで統一国家として、そして東南アジア諸国連合(ASEAN)の大国として成長を遂げてきた。

17日に首都ジャカルタの大統領宮殿(イスタナ)で行われた恒例の独立記念行事は、今年は例年と少し趣きが異なった。歴代大統領、歴代閣僚、国会議員などの政治家、退役軍人、各国外交官が参列、周囲は厳戒態勢が敷かれる例年の式典だが、今年は一昨年「庶民派」として選出されたジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領の肝いりで招待者2210人のうち70%が一般市民で式典の様子は大型モニターでイスタナ周辺に生中継され、朝からパレードに参加した多くの国民が式典を見守った。

 

■温故知新の独立記念式典

 式典では1945年8月17日のスカルノ氏による独立宣言の読み上げに間に合わせるためにスカルノ氏の夫人ファトマワティさんが前日夜に手縫いで完成させたという「メラ・プティ旗(紅白旗)」の故事にちなみ、全国から選抜された68人の男女の高校生代表にジョコウィ大統領から国旗が渡され、厳粛な雰囲気の中、掲揚された。

筆者もメガワティ元大統領時代に演壇上に招待され、この式典を間近で見守ったことがある。灼熱の太陽が降り注ぐ中、流れる汗を拭うこともなく、一糸乱れぬ動作で国旗を掲揚する若人代表の姿に「インドネシアの持つ多様な可能性」に感動したことを思い出す。

今年の式典ではインドネシア国籍を有しないフランス国籍のインドネシア人女子高校生(父親がフランス人で母親がインドネシア人)が選抜されたものの、インドネシア国籍を持っていないことを理由に2日前に掲揚隊から外される「事件」が起きた。最終的にはジョコウィ大統領の配慮でこの女子高生は国旗降納隊の一員として参加が可能になるなど「国籍よりも大事なもの」への議論が沸き起こった。これは先日の内閣改造でエネルギー・鉱物資源相に起用されたアルチャンドラ氏が過去に米国籍だったことから閣僚を罷免されたことと相まって「外国人、外国籍排斥傾向を改めよう」との新しい流れを受けた結果だった。

 

■「みんな違う」「いい加減」が前提

 ジェトロ・アジア経済研究所に23年間在籍し、現在は松井グローカルの代表であるインドネシア研究の専門家、松井和久氏の言葉に「みんな同じ日本、みんな違うインドネシア」という至言がある。

インドネシアで道に迷った、みるからに外国人の筆者がたどたどしいインドネシア語でインドネシア人に道を尋ねると、全員が自信たっぷりに教えてくれる。1人目は右だ、2人目は左だ、3人目は真っ直ぐだ、と。彼らにとって「迷っている人に道を知らないと教えることは不親切」「間違ったらまた別の人に聞いてくれ」なのだ。

こういうインドネシアに慣れて来た筆者は複数の人に道を聞き、多数決で道を決める方法を学んだ。もっともそれでも方向違い、はしばしば起きたが。これを「いい加減」といえば確かにいい加減ではある。松井氏は「いい加減さは今の日本社会にとってとても大事だと思う。それは寛容という言葉の言い換え、と言える」とも指摘する。確かに今の日本は「他人に厳しい社会」「いい加減さのゆるされない」社会になってしまったかもしれない。

他人に優しいインドネシア社会だからなのか、独立記念日には恒例の恩赦がある。今年は全国の刑務所で服役する約8万2000人が対象となり、その恩恵に浴した。対象服役囚に一切の差別はなく、一定の条件を満たせば汚職犯、麻薬犯に加えてテロ犯も例外ではない。今年の恩赦では国際的なテロ組織「アルカイーダ」と関連があるとされるイスラム過激組織「ジェマ・イスラミア」の精神的指導者として服役中のアル・バカル・バシール師が三カ月の減刑となったことがマスコミをにぎわした。ヤソナ法務人権相は「独立記念日の恩赦は受刑者の権利だ」と明言した。

 

■独立宣言文に込めた思い

 71年前にスカルノ氏が高らかに読み上げた独立宣言の原文のコピーがジャカルタ中心部の「モナス(独立宣言広場)」の塔で展示されているが、現在使用されている10万ルピア札にもスカルノ氏、ハッタ氏(初代副大統領)の似顔絵の間にその文面が描かれている。

この宣言文の年号が「05」となっており、これが占領時に日本が使用していた皇紀2005年(1945年、昭和20年)であることから「スカルノらが強制されていないのに皇紀を使用した意味は重い」とか「日本は350年インドネシアを植民地支配してきたオランダを放逐した」「日本が独立を掲げて戦ったことがインドネシア独立につながった」などという解釈がいまだにある。

スカルノ大統領の長女、メガワティ元大統領は「年号は戦争に負けた日本の協力を得るための方便だった。年号よりとにかく独立を宣言することが最優先だった」と筆者に明言したことがある。「05」という年号が皇紀であることになんらかの意義を見出そうとすることはインドネシア人にはほとんど意味がない、という指摘だ。もっとも彼らは「はい、日本のお蔭で独立できました」と相手をみて揉み手をするぐらいのしたたかさは身に付けているが。

「右向け右」という声をかければ右を向かないものが差別や仲間外れにされ兼ねない今の日本。その声が大きいあるいは威圧的であればなおさらだろう。それは日本が「みんな同じ」社会であり、「多様性の中の統一」と多様性を認めるインドネシア社会が「右向け右」と声をかければ、右、左、無視、反発と多種多様な反応がある「みんな違う」社会であることに由来するといえる。

そういう国、インドネシアをまとめていくことの難しさは並大抵ではなく、大統領の職務の困難さは想像を絶する、と思いがちだが、そうでもないらしい。メガワティ元大統領はかつて「なんとかなるというか、なるようにしかならない。大統領はそれを知ることが肝要」と笑いながら話してくれたことがある。なんと魅力的な国ではないか、と筆者は思う。インドネシアにあれこれ思いを寄せながら、独立記念日を過ごした。

*トップ画像:スカルノ初代大統領(左)とハッタ初代副大統領(右)、その間に独立宣言文が印刷された10万ルピア©大塚智彦


この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト

1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。


 

大塚智彦

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