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.社会  投稿日:2020/8/1

元々怪しいオリンピズム(上)嗚呼、幻の東京五輪 その4


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・近代オリンピックの父クーベルタンは幼少期からオリンピックに関心。

・クーベルタンはプロスポーツの黎明期であった米国へも視察。

・1880年以降上流社会で人脈築き、「スポーツ競技者連合会議」を招集

 

近代オリンピックは1890年アテネ大会より始まる。

今回はその話だが、本題に入る前に、ひとつお断りを。

前稿では煩雑を避けるため、海外の話題も含めて「五輪」の表記を用いたが、今回は「オリンピック委員会」「オリンピズム=オリンピック精神」といった固有名詞が頻出し、パラリンピックが始まる以前の話題でもあるので、オリンピックの表記を採用したいと思う。

また、近代オリンピックの父と称されるクーベルタン男爵については、

クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディというのが正しい呼び名なのだが、日本でもフランスでも、長きにわたって「ピエール・ド・クーベルタン男爵」が定着しているので、本稿もそれに倣う。煩雑を避けるため、以下クーベルタンで統一させていただく。

▲写真 ピエール・ド・クーベルタン男爵 出典:米国議会図書館

例によって余談ではあるが、フランスにおいては1789年の市民革命によって王政が打倒され、王侯貴族の多くが断頭台(ギロチン)で処刑された歴史がある。

ただし、革命の精神を具現化したフランス人権宣言においては、世襲の特権が廃止されただけで、貴族制度そのものが非合法化されたわけではなかった。

しかも、19世紀になってナポレオン1世はじめ複数の「皇帝」が生まれた結果、新たに爵位を授かるものまで出たのである。その後フランスが共和制に移行してからも、

「法的な裏付けのない貴族制度」

は生き残った。21世紀の今日でも、貴族を名乗ったり(クーベルタンもそうだが、フランスではミドルネームに<ド>がつくのは、貴族の家柄を示す)地元の人々から、あの人は貴族だと認められる地方在住の名士が4000家族ほど存在するという。

クーベルタンは1863年、パリ生まれ。

生家のフレディ家は前述のように男爵の家柄だが、ルーツはイタリアにあるという。彼は四人きょうだいの末っ子(三男)であった。

イエズス会系のコレジュ(神学寮を起源とする学校)に通い、そこで神父からギリシャの古代文明についての話を聞かされ、興味を持ったとされるが、異説もある。

19世紀末には、主にドイツの考古学者によって古代ギリシャの遺跡の発掘が相次いだ。彼が12歳の時、古代オリンピアの遺跡が発掘され、オリンピア競技会(古代オリンピック)への関心が全ヨーロッパで高まり、彼もそのニュースに接して、大いなる知的興奮を味わった、というものである。

これは、どちらかが間違いというのではなく、両方の要素があったのだろうと私は思うが、いずれにせよ若いと言うよりまだ幼い時期から、古代オリンピックへの関心が芽生えていたことは間違いない。

コレジュを出てからの進路だが、前述のように貴族は世襲の特権を奪われていた上に、長男でもない彼のような立場だと、軍人になるか、法律を学んで司法関係者か官僚になる道を選ぶケースがほとんどだった。

クーベルタンもご多分に漏れず陸軍士官学校に進むが、ほんの数カ月で中退してしまう。ナポレオン戦争の余波で。粗暴であることをむしろ美徳と考えるような風潮が、士官候補生にまで広まってしまい、そのような学校生活になじめなかったからだと言われている。

両親は、軍人が駄目なら法律家に……と勉強のやり直しを切望していたようだが、本人の関心は、次第に教育に傾いていった。

1883年、20歳のクーベルタンは英国に渡り、各地のパブリックスクールを訪問した。中高一貫の私立校で、裕福な家庭の子弟が集う。

ここで彼は、当時のフランスの中等教育が知識偏重であったのに対して、英国のパブリックスクールが心身ともに鍛え上げる、日本流にいえば「文武両道」の教育を行っていることに感銘を受けた。

とりわけラグビー校を訪ねて知った、ラグビー・フットボールには感じ入ったようで、後に審判の資格を取得し、パリでの公式戦で笛を吹いたほどである。

こうした経験を通じて、青少年の教育におけるスポーツの有用性を信ずるに至り、近代オリンピックの開催に尽力した……というのが「公式」に伝わっている話なのだが、実は異説も多い。

なぜなら、前述のように彼がまだ10代前半の当時より、古代オリンピックに関心を持つ人はヨーロッパ各地に大勢現れており、

「青少年の体位向上と地域コミュニティーの活性化を目指すオリンピア競技会」

は、これまた各地で(具体的にはイングランド、ドイツ、スウェーデンなど)開催されるようになっていたのである。

とりわけイングランドでは、北西部のコッツウォルズ地方で開かれる大会が、当時すでに毎年盛況であった。ここは何年か前にNHKの特集番組で「世界一美しい村」と紹介されたこともあるほど風光明媚な田園地帯だが、各種のイベントも盛んで日本人観光客の注目度も年々高まっている。

『オリンピックの真実』(佐山和夫・著 潮出版社)という本の中では、クーベルタンはこのコッツウォルズでの「オリンピア競技会」を実際に見て、近代オリンピックの想を得たに違いない、との説が開陳されている。

読んでみて、状況証拠しかないですね、というのが私の率直な感想であったが。と言って、ある日クーベルタンの脳裏に、天啓のごとく近代オリンピックの構想が浮かんだとも考えにくいので、やはりアイデアの基礎となるものは、どこかにあったのだろう。彼はイングランドだけでなくヨーロッパ各地、さらには当時すでにプロスポーツの黎明期であった米国へも視察に出かけている。

ともあれ1880年代以降のクーベルタンは、欧米各国のスポーツ諸団、教育界、そしてなにより、代々のコネクションがあった上流社会を通じて新たな人脈を築き上げ、ついにはパリにて「スポーツ競技者連合会議」を招集。その席上、近代オリンピックの開催と、主催団体としてのIOC(国際オリンピック委員会)の設立が決議ざれた。

1894年6月23日のことで、後にこの日は「オリンピックデー」と称されるようになった。日本では1949年より、毎年6月23日に様々なイベントが開かれている。

ちなみにクーベルタンはIOCの2代目会長である。彼の当初の構想では、パリを皮切りに、持ち回りで開催してゆく、ということだったのだが、ギリシャの富豪であったディミトリオス・ヴィケラス(1835〜1908)という人物が、

「最初の大会は、アテネで開かれるべきである」

とクーベルタンらを説得し、当時の規定では会長は大会開催国から選出されることになっていたため、初代会長の座に就いたのだ。

▲写真 ディミトリオス・ヴィケラス 出典:pandektis

このあたりの詳しい経緯は、JOC(日本オリンピック委員会)のホームページなどを参照されるとよいが、クーベルタンのことを「近代オリンピックの父」と呼ぶこと自体は、まったく正当であると私も思う。

ただ、日本の読者に知っていただきたいことがひとつある。

実はこの人、ヨーロッパのインテリの間ではひどく評判が悪いのだ。その理由については、次回。

(このシリーズ、その1その2その3

トップ写真:ローザンヌの本部前の記念碑 出典:Wikipedia; de:User:FreeMO


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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