インドネシア 医師百人超コロナ感染死
大塚智彦(フリージャーナリスト)
「大塚智彦の東南アジア万華鏡」
【まとめ】
・インドネシア、コロナ感染で死亡した医師が114人に上る。
・大規模社会制限の発令、緩和、緩和撤廃と迷走する政府。
・ワクチン開発や医療従事者への対応策などに力を注ぐべきとの批判も。
新型コロナウイルスの感染者数、感染死者数の増加に一向に歯止めがかからないインドネシアが医療崩壊の危機に直面している。インドネシア全34州で最も感染者数が多い首都のジャカルタ特別州では感染者の急増でコロナ感染指定病院の確保された病床の77%がすでに占有され、重篤患者を収容するICU(集中治療室)も83%が埋まっている状態で、遠からず病床不足が現実問題として迫ってくるのは誰の目にも明らかな状況となっている。
さらに深刻なのは医療従事者の感染で、インドネシア医師協会(IDI)が9月12日に発表した数字によると、これまでにコロナ感染で死亡した医師は114人に上っているという。
8月31日のIDIの発表では感染死亡医師は100人だったので、その後の12日間で14人が死亡したことになり、最前線でコロナ感染治療に当たる医師の不足も深刻化している。このためIDIなどでは医師、看護師などの医療従事者の安全確保についてジョコ・ウィドド政権に対し「特段の配慮」をかねてから要請しているものの、感染者数の増加ペースに医療現場の実情が追いつかないという厳しい状況が生まれている。
■装備不足、過酷な勤務、使命感が背景
インドネシアを含む東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟の全ての国が医療従事者のコロナ感染死亡事例を明らかにしている訳ではないが、インドネシアの数字は域内最悪とみられている。
医師がコロナに感染して命を落とす原因として
①マスク、手袋、防護服など医療従事者専用の高度な装備品の不足
②慢性的な医師不足に加えて休憩や休みが取れないあるいは取りにくい過酷な勤務実態
③目の前に患者がいる限り治療を続けるという高い医師の使命感、倫理観などが背景にあるとIDIでは分析している。
直近の例では9月9日に2人、10日に3人の医師が感染死している。医師の感染死が最も多いのは感染死者数がインドネシアで最も多い東ジャワ州でこれまでに医師29人が犠牲となっており、次いで北スマトラ州の21人の順になっていると指摘する。死亡した医師のうち約半数の55人が総合診療医と感染症専門医となっているという。
またIDIによると9月初旬までに看護師70人、歯科医9人もコロナによる感染死との報告を受けていることを明らかにしている。
IDI関係者は「これまで何度も政府に現場の医師、看護師ら医療従事者の保護するための措置を早急に講じるようにと要請している」ことを明らかにし、さらに今後も同様のことを強く求めるとしている。「医療従事者の安全確保ができなければ、コロナ感染者治療は不可能となることを政府は理解するべきだ」と重ねて早急な対応を求める事態になっている。
■命を最優先できない政府に国民の不満
3月にインドネシア国内でインドネシア人のコロナ初感染が報告されて以来、右肩上がり一直線で増加してきた感染者数と感染死者数。医療現場の混乱の中で命がけの治療に取り組む医療関係者の努力に応えるためとして、ジャカルタ州政府は4月8日に「大規模社会制限(PSBB)」を発令した。11の主要指定産業以外のオフィス、工場の勤務、操業自粛、飲食店の店内飲食禁止、公共交通機関の運行間隔間引き、運行時間制限などと同時に市民には「マスク着用」「手洗い励行」「社会的距離確保」という保健衛生上のルール徹底を求めてきた。
しかし経済への深刻な影響、失業者、低所得者への生活保障として現金提供、生活必需品の配布などを進めた結果の財政逼迫、市民の不満拡大などから6月4日に「PSBBの緩和策」を発表した。全体の50%に制限した上での飲食店内での飲食、工場稼働、オフィス出勤、公共交通機関の運行通常化などが打ち出され、市民生活には活気が戻った。
ところが規制緩和を規制解除と思い込んだ市民がマスク非着用で市街に溢れ、バスや鉄道のターミナル駅では3密状態が出現、近郊電車の通勤時間帯はラッシュ復活状態となり、8月から9月にかけて全国レベルでもジャカルタでも「1日の感染者数過去最高を記録」という報道が連日続く事態になってしまった。
こうした感染者数が急増する中でもジャカルタのアニス・バスウェダン州知事は「自転車通勤しよう」「自転車専用レーン設置」「年齢制限した上で映画館の再開を目指そう」などとマスコミ受けする対策を次々発表するだけだった。
政府もジョコ・ウィドド大統領が「さあマスクを着用しよう」というサイネージ広告に登場するだけで、各閣僚も「ワクチン開発を急いでいる」「経済への影響は最小限に留まっており、これから経済復活に向けて一丸となろう」と威勢のいい花火を打ち上げるばかりだった。
こうした政府や州政府の「無為無策」振りにインドネシア大学の感染症専門家などからは「規制緩和は間違いであり、インドネシアはまだコロナ感染の第一波すら終わりがみえない状況」と事態の深刻さを再三再四訴えてきた。
■ワクチンの成分はイスラム教に適合か
そんな中でもマアルフ・アミン副大統領が8月初めに開発中のコロナワクチンに関して「ワクチンの成分がイスラム教徒として摂取していいものか確認する必要がある」と発言した。
インドネシアはイスラム教が国教ではないが、人口の88%をイスラム教徒が占めており、圧倒的に多数のイスラム教徒が「隠然たる影響力」をもつ国家である。
さらに9月9日にはあまりに感染者数の急増が続くことに業を煮やしたアニス州知事が「ジャカルタのPSBBを以前の厳しい規制に戻す」と発表した。ところがすぐにこれに対しジョコ・ウィドド大統領が「首都ジャカルタの経済停滞を招く全域での規制強化はよく検討してから決めるべきだ」と注文をつけた。
「ワクチンの成分を調べろ」「経済活動への影響を配慮しろ」などという発言がインドネシアの正副大統領2人から飛び出す事態にインドネシアのコロナ対策の迷走ぶりが象徴されている。
■ジャカルタは再び厳しい制限下に
9月13日にジョコ・ウィドド大統領や一部閣僚、さらにジャカルタ州議会議員の一部反対を押し切る形でアニス知事は「PSBBの緩和策の撤廃で厳しい社会制限への逆戻り」を公式に発表した。これにより日本食レストランをはじめとする飲食業は店内での飲食が禁止され、「持ち帰りか宅配」に営業は限定されることになった。また指定された医療、生活必需品、情報通信などの11業種以外は営業、操業は可能だが全体の25%の人員での勤務を続行することが求められることとなった。
▲写真 公共交通機関でのマスク着用(イメージ) 出典:pixabay
このほか公共交通機関の運行時間、運行本数も制限され、マスク非着用者への罰則も厳しく適用することなどが発表され、規制強化初日の14日にはジャカルタ市内各所で警察などによる検問でバイク運転手、乗用車運転手、同乗者のマスク着用が検査された。主要な鉄道やバス、地下鉄の駅でもマスク着用をチェックするなど、とにかくマスク着用が徹底されている。
こうした中「マスク着用の有無を調べること以外にすることがないのか」との冷静な見方も出ており、感染者対策で切り札となるワクチン開発や医療従事者への手厚い対応策、失業者や無給自宅待機者への経済的支援など緊急を要する諸策への取り組みに力を注ぐべきとの批判も噴出している。
まさに八方ふさがりのインドネシアのコロナ対策は「マスク」だけが唯一の有効な感染防止手段として政府の肝いりで進められるという「珍妙な現象」が起きている。
トップ写真:コロナ感染指定病院の様子(イメージ) 出典:Alberto Giuliani(Covid-19 San Salvatore 09.jpg)
【訂正】2020年9月17日
本記事(初掲載日2020年9月16日)の本文中、「ニス州知事」とあったのは「アニス州知事」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。本文では既に訂正してあります。
誤:さらに9月9日にはあまりに感染者数の急増が続くことに業を煮やしたニス州知事が「ジャカルタのPSBBを以前の厳しい規制に戻す」と発表した。
正:さらに9月9日にはあまりに感染者数の急増が続くことに業を煮やしたアニス州知事が「ジャカルタのPSBBを以前の厳しい規制に戻す」と発表した。
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この記事を書いた人
大塚智彦フリージャーナリスト
1957年東京都生まれ、国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞入社、長野支局、防衛庁担当、ジャカルタ支局長を歴任。2000年から産経新聞でシンガポール支局長、防衛省担当などを経て、現在はフリーランス記者として東南アジアをテーマに取材活動中。東洋経済新報社「アジアの中の自衛隊」、小学館学術文庫「民主国家への道−−ジャカルタ報道2000日」など。