「日本人にとって生き死にとは」続:身捨つるほどの祖国はありや 8
牛島信(弁護士・小説家・元検事)
【まとめ】
・岸本英世氏:死の恐怖は、すべてが「無」になることへの恐怖。
・佐伯啓思氏:「日常の一瞬、一瞬の行いにこそ『別れの準備』がある」
・人はみな死ぬ。死までの過程こそが問題。
「人は死ねばゴミになる。」検事総長だった伊藤栄樹氏の言葉である。
しかし、身近であればもちろんのこと、見知らぬ異国の他人であっても人の遺骸をゴミと感じる人は少ないだろう。ねんごろに葬らずはいられないのが人の情というものであろう。
佐伯啓思氏の『死にかた論』(新潮選書)という新著を読んだ。
佐伯氏の話は安楽死から始まる。氏自身は「医師が一定の条件のもとに積極的に死を与える積極的安楽死まで含めて、可能な限り容認する方向で議論すべきだと思っている。」とその考えを述べる。(26頁)
私はつい最近、『いのちの停車場』という映画を観る機会があった。南杏子さんの「いのちの停車場」(幻冬舎文庫)を成島出氏が監督した東映作品である。
映画は、吉永小百合主演の医師が、父親を安楽死させようるとことを決心するところで終わる。しかし、観ているものはだれも、きっと安楽死が実行されたに違いないと思わずにはいられないある具体性が示されたうえでのエンディングだった。
父親は、病による痛みに耐えられず、自らの力で死のうとするのだが失敗し、自分自らの力ではもはやは死ぬことすらできない状態になってしまったいたのである。実の娘である医師に、何度も殺してくれと哀願するした。娘はそのたびに拒む。
まさか父親に安楽死をほどこすなどことになろうなどとはおもいもかけず、主人公は事情があって、大都市の病院から実家のある小さな町の診療所医院に勤めを替えた。主人公はそこで、他人の死をいくつも看取る。その最後になったのが、父親の死だったのである。
私は弁護士だから、ああ、この娘さんは警察に逮捕されるのだろうな、刑事裁判では執行猶予にはならないのだろうかな、と思いながら、涙とともに観ていた。医師とはいっても実の娘ではまずいなあ、それにこの安楽死には医師が一人しか関与していないしなあ、といろいろに思いをめぐらせながらも、この親子の間で起きたことには刑事罰がふさわしいのだろうかとなんどもなんども反芻していた。
前提となる事実は、映画だから確定されている。だが、現実の安楽死については、事実がどうだったのかを確定するところから始めなくてはならない。本当に安楽死だったのか、から始める。そのためには刑事裁判の厳密な手続きが必要だと考えるしかあるまいとも思っていた。
それにしても、安楽死は、生を終えるまでの話である。死は?生きている人にとって死とはなになのか。
佐伯氏は、51歳で癌を発見され10年間を生きた宗教学者、岸本英世氏の『死を見つめる心』(講談社文庫)を取り上げて、「死の恐怖とは、この自分が亡くなればこの世界も無くなってしまうという考えからでている。」と述べる。(211頁)「すべては『無』になる。ところが『無』を想像することができないので、そこに恐怖が生まれる。」と岸本氏の考えを紹介した後、さらに続けて、「この世界がなくなるというのは錯覚であって、実際には、私が死んでもこの世界は存在する。だから、死とは、私がこの世界に別れを告げるだけのことだ。」「この世界に別れを告げた自分は宇宙の霊に帰って永遠の休息に入るだけだ」という岸本氏の最期の考えを伝える。
岸本氏のその本は、私も9年前に読んでいた。確か、宗教学者の島薗進氏の本を読んでいて触発されたのだったという記憶だ。岸本氏の、未だ51歳という年齢で、受験を控えた子供がいる状況だったことが印象に残っている。手術につぐ手術で10年間を生き、61歳で死んだことになる。
佐伯氏自身はどう考えているのか。
というと、先ず、「現代の死生観の無力は、繰り返すが、西洋近代社会の価値観の帰結によるところが大きいのである。われわれはせいぜい、『死は無視し、生の充実と幸福追求だけが問題だ』という、いわば『死生観もどき』で満足するほかない。」と暫定的に述べる。その後に、「医学という科学の展開と医療という技術の進歩にすべてを委ねるという近代主義の『死にかた』とは異なったかんがえはないのだろうか。」として、「日本文化や日本思想には『死の無視と生の充足』とは違った死生観があったのではないだろうか」と論を進める。(205頁)
佐伯氏のめざすところは、どうやら「近代的な合理主義の背後に、もう一つ、我々は日本的な死生観を配置すべきであろう。」ということのようである。(214頁)
それは、岸本氏の述べた「『生と死』の間に『別れの準備』を差し挟んだ。」ということにも通ずるものであるらしい。「『別れの準備』を差し挟むことで、『死へむけた生』と『生を覚醒する死』がともに現れてくる。」というあたりになると、一読しただけではなかなか理解が難しい。
難しいままに読み進めると、「親しい人との一瞬の出会い、見慣れた山川の風景、道端に咲く草木を心から味わい、与えられた仕事を使命感をもってひとつひとつ力の限りこなしてゆく、こうした日常の『行』そのものが覚りであるという考えである。」というくだりに行きつく。「覚りは、一瞬、一瞬にあるという道元にならえば、日常の一瞬、一瞬の行いにこそ『別れの準備』がある、ということにもなろう。」というあたりが、佐伯氏の、現時点での、結論のようなものなのだろう。(213頁)
佐伯氏の言葉は、「今日が、人生最後の一日だと思って過ごせ」と言ったといういうスティーブ・ジョブズを思い出させる。
▲写真 佐伯啓思、2021『死にかた論』新潮選書 出典:新潮社
私は、死ねば無になるという予感への恐怖はない。
鷗外は、自我を「死というものはあらゆる方角から引っ張っている糸の湊合している、この自我というものが無くなってしまうのだと思う。」と定義したたうえで、「暇があれば外国の小説を読んでいる。どれを読んで見てもこの自我がなくなるということは最も大いなる苦痛だと云ってある。ところが、自分には単に我が無くなるということだけならば、苦痛とは思われない。ただ刃物で死んだら、その刹那に肉体の痛みを覚えるだろうと思い、病や薬で死んだら、それぞれそれの病症薬性に相応して、窒息するとか痙攣するとかいう痛みを覚えるだろうと思うのである。自我が無くなるための苦痛は無い。」という。(『妄想』)私は鷗外の徒なのである。
といって、シーザーがそう考えていたと言われるように、突然の、思いもかけない死が最も良い死であるとも思えない。所詮おなじことなのかもしれないが、できれば死にそうだと予めわかりたい。そうとわかれば最大限の抵抗をして、例えば大手術をして、なんとか生き延びようとするに違いないと思っている。
無駄な抵抗、あがき。
そのとおり。人と生まれたものはみな死ぬのである。不老長寿の薬を求めた秦の始皇帝も死んだ。
だが、「みなさんが2029年までがんばって生きていれば、医療技術の進歩によって、『一年生き延びるたびに、あなたの平均余命も1年長くなるでしょう。生まれてから死ぬまでの寿命が長くなるという意味ではなく、あなたに残されている余命が長くなるという意味です。』という説がある。「グーグルで未来の技術の動向を予測する役割を担っているチーフ・フューチャリスト、レイ・カーツワイルが述べている」と書かれた本を読んだことがある。(バーツラフ・シュミル『世界のリアルは「数字」でつかめ』(42頁 NHK出版)
そういえば、鷗外は、『妄想』のなかで、「人間の大厄難になっている病は、科学の力で予防もし治療もすることが出来る様になってきた」とし、「人間の命をずっと延べることも、あるいは出来ないには限らないと思う。」と未来への希望を述べている。それはそうであっても、49歳の鷗外自身自分は「死を怖れず、死にあこがれずに、主人の翁は送っている。」と最後に書いている。そう書いてから11年後に死んでいる。
週刊新潮の連載エッセイで知られた山本夏彦氏は87歳で亡くなっているが、最後のころには死なないような気がしてきたと書いていた。実は、95歳で亡くなった私の父親も最晩年には同じことを実感を込めて述懐していたものだった。歳をとると生きることに飽きてくる、という話も聞く。
ちなみに、15世紀から16世紀にかけてのイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンは「人はただ生まれ、そして死ぬだけだ。それだけのことだ」と言っているそうである(84頁)ちなみに彼は65歳で死んでいる。
死はいずれ来るとしても、私は、そこまでのその過程こそが問題だろうと思っている。
漱石は、その思い人といわれる大塚楠緒子の若い死に際して
「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」
と詠じた。死は、結局のところ、遺されたものの問題なのであろうか。少なくとも、本人が語ることはないことだけは確かである。
トップ写真(イメージ):枯れたポプラの木 出典:Photo by China Photos/Getty Images
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html