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.政治  投稿日:2022/9/22

国葬は閑散、国民葬は長蛇の列(下)国葬の現在・過去・未来 その4


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・山県有朋の国葬が閑散としていたのに比べ、大隈重信の国民葬には30万人もの参列者があった。

・大隈重信が国葬に付されなかったのは、伊藤・山県らの長州人脈と距離を置いていたからだと思われる。

・外務大臣在任中にテロに遭ったが、それでも主張を曲げなかったことで国民からの人気も高まり、国民葬にたくさんの人が集まった。

 

前回、大日本帝国陸軍の生みの親と称される山県有朋の国葬が、いたって寂しいものであったこと、その理由は彼の政治手腕と陸軍という組織が、ともに不人気であったことに求められると述べた。一方、同じく首相経験者であった大隈重信の国民葬には、30万人もの参列者があったということも。

まず見ておかねばならないことは、大隈が国葬に付されなかった理由だが、これはやはり、彼が伊藤・山県らの長州人脈と距離を置いていたからだと考えるのが妥当だろう。

大隈重信は1938年、肥後国佐賀城下(現・佐賀県佐賀市)で生まれた。幼名は八太郎。

すでに述べたように、長州閥の中核であった伊藤・山形が、いずれも足軽・中間という低い身分であったのに対して、彼の生家は上士すなわち身分の高い家柄であった。父・大隈信保は四百石取りの石火矢頭(砲術長)で、生家は国の史跡となっている。写真しか見たことがないが、立派な武家屋敷だ。

▲写真 大隈重信、自宅での写真 出典:Photo by The Print Collector/Getty Images

佐賀藩(鍋島家)は35万7000石という、比較的大きな藩であったが、複雑な「お家事情」があって、支藩が無闇に多く、財政はさほど豊かではなかったようだ。一方、尚武の気風はきわめて強く、

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

の一節で知られる『葉隠聞書』は佐賀藩士・山本常朝の手になるものである。個人的には、サラリーマン向けの「処世術」の本とどこが違うのか、という読後感しかなかったが、その話はさておき。

幕末の佐賀藩は、教育に力を入れる一方、築地(ついじ)反射炉を造って、それまでの青銅製に代わる鉄製の新式大砲=世に言うアームストロング砲を国産化するなど、軍備の強化にも余念がなかった。前述のように大隈重信の父はこの方面の責任者たる地位にあったが、具体的な功績まではよく分からない。いずれにせよ、当時の日本としては最先端の軍備を保有していた佐賀藩は、薩長、それに土佐と並んで「薩長土肥」と呼ばれる、明治維新の立役者となった。

例によって余談にわたるが、2003年に「はなわ」というお笑い芸人さんが『佐賀県』という歌をヒットさせた。

「どこまで行っても水田ばかり まるで弥生時代」

という歌詞を聴いて、維新後の100年あまり、佐賀県民はなにをしていたのだろうかと、妙な感想を抱いたのを覚えている。ギャグであることはもちろん承知の上でだが。

話を戻して、幕末の動乱の中で、若き日の大隈重信も尊皇攘夷をとなえる志士となる。しかし20歳の時、藩命で長崎に派遣され、フルベッキというオランダの宣教師と出会い、英語や西洋の近代思想を学んだことから開国論者に転向した。伊藤博文の留学体験とよく似ているが、大隈は佐賀に対して英語学校を創立するよう働きかけ実現させた。

江戸時代には西洋文化と言えば蘭学すなわちオランダの文献を通じて学ぶものであったが、いち早く英語に着目した大隈には、確かに先見の明があったと言えるだろう。

ちなみに当時の彼は、まだ20代前半だった。長州の高杉晋作は、24年に満たない生涯の中で、封建社会の身分意識を覆し、身分を問わず参加できる「奇兵隊」を旗揚げして、幕府の軍勢を壊走させる偉業をなした。

世の中が大きく変化する時期には、このように若い才能が台頭するのだろう。

夭折した高杉らと違い、大隈は明治政府の中で栄達したが、新政府の政体をめぐって伊藤博文らと対立し、最終的には数名の官僚と共に職を辞することとなる。前にも触れた「明治14年の政変」だが、両者の対立点のみおさらいしておくと、ドイツ(=プロイセン)式の強力な中央集権制と、天皇中心主義を具現化した憲法の制定を目指した伊藤に対し、大隈らは英国式の政党政治=立憲君主制を目指すべきだと主張したのだ。

その後、これもすでに述べたように、立憲改進党を旗揚げして政界への影響力を取り戻す一方、教育者としても名をなすこととなった。

政変の翌年すなわち1882(明治15)には東京専門学校を設立。本誌の読者には今更ながらの説明であろうが、この学校が1902(明治35)年、早稲田大学と改称する。

この改称自体は、学制の変換によって大学として認可されたことにともなうものだが、日英同盟が締結された年であることには、なにやら因縁めいたものを感じる。

と言うのは、1877(明治10)年に設立された東京帝国大学が、ドイツ法の研究に主眼を置いていたのに対し、早稲田大学の方は、東京専門学校時代から英国式の政治経済を教えることを旨としていた。現在に至るも、東大はじめ大半の大学において、法学部が文科系の最優秀・最難関として、看板学部と称されるのに対し、早稲田大学では政治経済学部が看板学部と呼ばれている。

ちなみに、福沢諭吉が創設した慶應義塾も同時に大学として認可されており、両校が日本で初めての私立大学ということになった。早慶のライバル関係は明治の世までさかのぼるわけだが、大隈と福沢は、個人的には親しかったという。ただ、研究者の中には、在野の啓蒙思想家・教育者に徹していた福沢は「政治権力者との二足のわらじ」と呼べる大隈のことを、内心よく思っていなかったのではないか、と見る向きもあるようだ。

同じく1902年には、早稲田大学雄弁会も旗揚げされた。こちらも、多くの出身者が政界やジャーナリズムで活躍していることで有名だ。

創立だれた経緯だが、1890年代より、栃木県の足尾銅山から流出した廃棄物が、渡良瀬川流域の住民に深刻な健康被害をもたらしていた。銅山自体は江戸時代より創業していたが、明治政府が後押しした大拡張によって、産業廃棄物を原因とする環境汚染の規模も大いに拡大したのだ。わが国初の公害事件と称される。

この「足尾鉱毒事件」に際して大隈は、東京専門学校(当時)の学生が、各地で公害の悲惨さを訴える演説を行うことを奨励した。こちらはわが国の学生運動のはしりとされるが、創立者が学生運動をあおったというのも、なかなかすごい話ではないだろうか笑。

ともあれこの運動を機に、自身の主張を広く大衆に伝えるには「雄弁術」が必要だというのが大隈の考えで、彼自身、演説に際しての

「~であるからしてぇ、~なのであーる」

という独特の語り口が「雄弁口調」と呼ばれ、人気があったという。後にはこれが、政治家の演説のステレオタイプのように言われたが、敗戦後、普通選挙が定着してからは、一般に丁寧語に代わった。

しかしながら、このような大隈の姿勢をよく思わない者もいた。

1889(明治22年)には、日本の右翼の草分けと称される玄洋社のメンバーが、大隈の乗る馬車に爆弾を投げ込むという事件が起きた。爆弾は大隈の足下で爆発し、一命は取り留めたものの右足を切断する重傷を負う。

当時大隈は外務大臣で、江戸幕府が欧米列強との間で締結した、世に言う不平等条約の改正に腐心していた。その交渉の過程で、欧米人が日本国内で起こした犯罪については日本の官憲が訴追できるようにする代わり(不平等条約の下では日本側に裁判権がなかった)、外国人の判事を登用できるようにする、ということになっていたが、これに反対してのものとされる。ただ、犯人もその場で自決したため、詳細な動機などは分からずじまいであった。

このような大隈の外交政策には、一般市民の間からも批判の声が強かったが、テロに遭っても主張を曲げなかったということで、むしろ人気が高まったようだ。

ここまで読まれた方には、山県有朋の国葬にあまり人が集まらなかった一方、大隈の国民葬には多くの一般市民が詰めかけたこと自体は、なんの不思議もないと思われたのではないだろうか。同時に、大正デモクラシーと呼ばれた世相が無関係ではなかったことも。

とは言え、歴史は一筋縄では行かない。

二人が相次いで世を去ってから10年もしないうちに、陸軍は民間人を「地方人」と呼んで見下すような、とんでもない軍隊へと変貌し、さらには民間右翼の一部とも手を組んでのテロの恐怖でもって、議会や新聞をねじ伏せてしまうのである。

こうした歴史から、安倍元首相の国葬をめぐる議論の中にも、いささか危うさを感じざるを得ない私なのだが、その話をする前に、と言うよりは議論の前段階として、英国のエリザベス2世女王の国葬との比較について、次回語らせていただこう。

その1その2その3。つづく)

トップ写真:早稲田大学創設者である大隈重信の葬儀の様子 出典:Photo by Buyenlarge/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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