ザ・ドリフターズの功罪(下)娯楽と不謹慎の線引きとは その5
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・ドリフの番組は、主婦連などの意識調査で「子供に見せたくない番組」のワーストワンに名指しされ、TV局には放送中止を求める投書殺到。
・どこまでが娯楽で、この一線を超えたら不謹慎、という基準は、あってないようなものだが、時代が変われば判断基準も変わる。
・お笑い(番組)を取り巻く環境とか、世相の変化について、つい考えさせられてしまう。
2021年暮れにフジテレビ系列で放送された『志村けんとドリフの大爆笑物語』というドラマが秀逸だった。
本連載でも取り上げたが、この前年、2020年3月29日に彼は新型コロナで他界している。享年70。
ドラマでは山田裕貴が演じた。他に加藤茶を勝地涼、いかりや長介を遠藤憲一、仲本工事を松本岳、高木ブーを加地将樹、荒井注は金田明夫というキャスティング。
皆ドリフを見て育った世代であるだけに、演じるのが楽しくて仕方ない、という雰囲気が見る方にもよく伝わってきた。リーダーのいかりや長介を水責め(お湯責め?)にする銭湯コント、時代劇でおなじみの、新撰組による池田屋襲撃事件をネタにした「階段落ち」コントの再現度の高いことと言ったら……ドリフを愛した人たちでなければ作れないドラマだと感じ入った次第である。
志村けん(本名・志村康徳)は1950年、東京都北多摩郡東村山町(現・東村山市)生まれ。ドリフでは唯一の戦後生まれであった。つくづく時代を感じる。
父親は教員で、兄弟も大学を出て公務員になったが、彼だけはコメディアンになる夢を抱いて、高校卒業直前、いかりや長介の自宅まで押しかけて弟子入りを志願。いかりやが熱意にほだされ、ボーヤとして採用されるところから、ドラマが始まる。採用を知らせる電話をもらい、
「では、高校を出たらすぐに」「馬鹿野郎、明日から青森へ行くんだよ」
というやりとりがドラマにあったが、これも実話なのだとか。
ボーヤの語源などについては前回述べたが、話の順序として、もう少し説明を加えねばならない。
現在、多くの芸能プロダクションが「養成所」を設けており、芸人、俳優、ミュージシャン、アイドルいずれも、オーディションに合格した後、養成所を経てデビューという道をたどった者が多いのだが、昭和の時代は、徒弟制度のように雑用と見習いを経て一本立ち、というケースがほとんどであった。
所ジョージは宇崎竜童率いるダウンタウン・ブギウギバンドのボーヤだったし、横山剣はクールスのボーヤからリードヴォーカルに抜擢されたというキャリアを持つ。ビートたけしや松平健もボーヤの経験があると述べれば、大筋のところはご賢察いただけよう。
話を戻して、ドリフのボーヤとなった当時、志村けんの父上は認知症を患っており、その世話を母一人に押しつけて芸能界入りしてよいものか、葛藤もあった。しかしその母は、
「そんな心配しないで、頑張ってやりなさい」
と言いつつ、旅費らしき現金の入った封筒を渡し、家を送り出してくれたのである。ドラマでは宮崎美子が演じた。
その後、これも前回述べたように、荒井注と交代する形で正規メンバーとなるのだが、その際に父親の名前から一時もらって「けん」という芸名にしたという。
メンバー入りした当初、志村けんの評判は散々だったが、次第に頭角を現し、ドリフになくてはならない存在となる。
ドリフは今思い出しても、各メンバーの個性が際立っており、そこが面白かった。
加藤茶と志村けんが主にコントを回していたが(ネタの多くは志村のアイデアらしい)、仲本工事は理屈っぽいインテリキャラで、一方、抜群の身体能力を見せていた。
実際に彼は、都立では屈指の受験名門校だった青山高校出身で、成績は常にベスト10圏内、かつ都大会で準優勝の経験もある体操選手でもあった。新聞記者志望で学習院大学政治経済学部に進んだが、大学に体操部がなかったため、もうひとつの趣味であった音楽にのめり込んだという。
コント作り=放送作家やスタッフとの打ち合わせの席でも、いかりや長介らはピリピリしていたが、彼はいつも飄々として、言われたことはなんでもやりますよ、という姿勢を貫いていた。そのキャラクターと身体能力とは、今考えてもドリフに欠かせないものだ。
高木ブーは肥満のせいで体内の酸素が不足し、突発的に睡魔に襲われて動けなくなるという持病を抱えていたのだが、ドリフではそれを逆手にとって、動けない、しゃべれない「無能キャラ」を演じた。しかし、楽器の演奏をさせればピカイチで、後にはウクレレ奏者としてアルバムまで出している。旧メンバーの荒井注は「ヤクザのオッサンキャラ」であった。
そんな彼らが、前述のように練りに練ったコントを披露するのだから、受けないわけがない……と言いたいところだが、当然ながら視聴者には子供から大人までいるわけで、子供たちと親たちとの間で、かなりの温度差があった。
これも前回述べたことだが、主婦連などの意識調査で「子供に見せたくない番組」のワーストワンに幾度も名指しされ、TV局には放送中止を求める投書が殺到したという。暴力的であるとか、食べ物を粗末にするな、といった理由が大半を占めていたと聞く。
前述のドラマの中でも、そうしたシーンが出るが、いかりや長介は、抗議の投書が200通届いた、という報告を受けても、毎週見てくれている人は何千万人だろう、として、
「下品上等。徹底的にやるぞ」
と言い放つ。そもそも抗議してくるということは、見ているということではないか、と。
局側にせよ、視聴率競争がもっとも厳しい土曜午後8時を制した番組だけに、放送休止を求められても応じるわけには行かなかっただろう。
とは言え、栄枯盛衰は世の常で、1981年春、フジテレビ系列で『オレたちひょうきん族』が始まると、次第に押され気味となり、1985年以降は後塵を拝するようになってしまった。
メンバーの高齢化も追い打ちをかけ、ついに1985年、放送打ち切りが決まる。TBSは
「ナンセンスギャグをやり尽くした」
と発表したが、要は、新たなコントを考え出し、自ら演じる力が残っていなかった、ということであろう。その後は『加トちゃんケンちゃん』のシリーズが1992年まで続く。
とどのつまり、主婦連などがいくら放送中止を訴えても功を奏することはなかったが、と言って、彼らのコントになんの問題もなかったのかと言われると、それも少し違う気がする。
以下、私見であることを明記しておくが、よい子は真似しちゃいけません、といいたくなるようなネタはしばしば見られた。
たとえばセクハラ。この連載でも以前に取り上げたことがあるが、女子プロレスと対決する、というコントで、ドリフの面々は女性のお尻に「カンチョー」したり、刷毛でくすぐったりと、やりたい放題。
大笑いしながら見つつも、今だったら放送できないだろうな、などと思った。
ただしこれには別の側面もあって、相手は女性とは言えプロレスラーなので、
「ガチンコでは到底勝ち目がないから卑怯な手を使う」
というギャグとして成立していたのである。非力な女性アイドルに同じ事をしたら、もはや犯罪的と言うべき案件だろう。これは端的な一例で、ドリフに憧れてお笑いの道に進んだ者の中には、お笑いで知名度を上げればアイドルにセクハラしても許される、といった考えに染まった者が多いのではないだろうか。志村けん自身も生前、
「お笑いとはああいうものだと思い込んでいた」
としつつ、ドリフから『バカ殿シリーズ』などで披露したいくつかのネタは、今だったらセクハラ・パワハラにもなりかねないことを認める発言をしている。
実際に数年前、AKBの人気メンバーの顔を蹴って、ファンから殺害予告を受けた芸人がいた。殺害予告はもちろん許されることではないが、女の子の顔を蹴って笑いが取れると思い込む感性も、相当問題だろう。要は、お笑いの腕ではドリフの足下にも及ばない者が、妙な具合に真似をするからいけないのだ。
志村けんにはまた「変なおじさん」という持ちネタもあったが、あれも実は、前述のように認知症を患った父上と、どうしても会話が成立しなかったことから想を得たものだと言われている。
身内の病気までネタにするは、さすがの芸人根性、と見る向きが多いが、これなども、ひとつ間違えば「認知症の人をバカにしている」などと糾弾されたかも知れない。
どこまでが娯楽で、この一線を超えたら不謹慎、という基準は、あってないようなものだが、ひとつ確かなことは、時代が変われば様々な判断基準も変わる、ということ。
難しいことなど考えず、お笑いを楽しめばよいのかも知れないが、ドリフの場合は世間に与えた影響があまりに大きく、お笑い(番組)を取り巻く環境とか、世相の変化について、つい考えさせられてしまうのである。
トップ写真:妖怪ウォッチの記者会見に出席する志村けん氏(2014年12月20日) 出典:Photo by Sports Nippon/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。