無料会員募集中
.国際  投稿日:2023/2/17

是松豊三郎~アメリカ政府を相手に闘った男


柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)

【まとめ】

・是松豊三郎は戦時中の日系アメリカ人の強制収容についてアメリカ合衆国を相手に戦った。

・勝訴した是松は、文民が受賞できる最高位の栄誉勲章、「大統領自由勲章」を受章。

・全米各地で、コレマツの誕生日の1月30日を「フレッド・コレマツの日」として記念日に制定する動きが増えている。

 

是松豊三郎(これまつ・とよさぶろう)という人をご存知だろうか。

是松は福岡県から移民した両親のもと、大正8年(1919年)カリフォリニア州で生まれた日系アメリカ人である。

アメリカではフレッド・コレマツとして知られ、アメリカ政府を相手に争った。戦後のアメリカの歴史にその名が刻まれたことは、あまり日本では知られていない。

大戦中、コレマツがアメリカ政府を相手に最高裁まで争った裁判は「コレマツ対アメリカ合衆国裁判」として、「アメリカ最高裁判史上、最悪の裁判の一つ」としてしばしば、引用されている。

コレマツが22才だった昭和16年(1941年)、日本軍の真珠湾攻撃により日米間で戦争が始まった。

アメリカの敵国となった日本をルーツとする、おもに、西海岸に居住していた日系人12万人は、時のルーズベルト大統領が発布した大統領令9066号により、強制収容所に収容されることになった。

大統領令9066号は、軍や司令官が、スパイの嫌疑をかけられた人々を強制的にその地域から立ち退かせる命令を出せる法令である。

写真)若い頃のコレマツ

出典)courtesy of Karen Korematsu and the Fred T. Korematsu Institute.

 

当時、コレマツはカリフォリニア州に住んでおり、退去命令の対象となったが、命令には従わず、整形手術までしてハワイ系スペイン人を名乗って退去を逃れた。その後、街角にいるところを「日系人がいる」という通報で逮捕、投獄された。逮捕されたコレマツが、大統領令に応じなかったのは「自分はアメリカ生まれのアメリカに忠実な市民であるだけで、何も悪いことはしていない」というまっとうな理由からであった。

コレマツは収容所に送られ、馬糞の匂いがする、裸電球一つの元厩舎を住居としてあてがわれた。そこは「逮捕された時の留置場のほうがマシだった」というほどひどいところであったという。

コレマツの逮捕理由は平たく言えば、「日系人であるから」だけである。

コレマツはその後、弁護士からの働きかけもあって「強制収容は違憲」として裁判に訴えでた。

1944年まで、アメリカ政府を相手に最高裁まで争ったが、結果は「日系人のスパイ活動は事実であり、強制収容は違憲ではない」という判断で、コレマツの有罪は覆らなかった。

その後、終戦となったが、日系人であると言う理由で戦後も就職先で、待遇の差別があったり、「犯罪者」としての前科が付いてしまったため、望む職に就けなかったりした。

結婚し、子供ももうけたが、一連の出来事は家族にもいっさい話さなかったという。

ーーー

最高裁判決から40年近くが経った1980年から、ジミー・カーター大統領の議会署名により、戦時中の日系人の強制収容に関しての調査委員会が設けられ、再調査が行われていた。

そして1982年に、日系人強制収容に関する資料を調べていた大学教授らによって、衝撃的な資料が発掘された。

発掘された資料は、コレマツ裁判の検察側(アメリカ司法省)の弁護士、エドワード・エニスによるメモであった。

そして、そこには「我々は強制収容に関するWRA(戦時転住局)の報告が嘘である、という情報(証拠)をもっている。我々には(最高裁へ)嘘をついてはならない、という倫理的義務がある」と書かれていた。

司法省の弁護士であったエニスは、コレマツを有罪に持ち込むため「日系人が危険であることを証明する」証拠を探している最中、逆に「日系人が(スパイ活動のための)通信を行っている証拠はない」という連邦通信委員会(FCC)の報告、また、エドガー・フーバーFBI長官が自ら書いた手紙や、海軍情報局(ONI)など、権威ある複数の機関からの「日系人がスパイ活動などをしている事実はない」との調査報告書を発見してしまったのである。

しかし、司法省はなんと、その報告書を握りつぶし、裁判で証拠を捏造。結果、コレマツは有罪となってしまったのである。

1982年にメモを発掘した一人である、大学教授で弁護士のピーター・アイアンズは、その時のことを「これはダイナマイトであることに気づいた」と言っている。メモの端には「証拠隠蔽の必要性もあり」とも書かれていたのである。これ以上の捏造の証拠はなかった。

アイアンズ弁護士から証拠資料発見の報を受けたコレマツは、再び、アメリカ政府と戦う決心をした。つらい過去を思い出したコレマツにとって、再審に臨むことは大変な決心であった。

訴訟に際し、圧倒的不利な証拠を握られていることを察したアメリカ政府は、コレマツが訴訟を取り下げるなら、有罪を取り下げる「特赦」を申し出た。だが、コレマツはこれを一蹴。

逆にアメリカ政府に対し「もし誰かが恩赦をするなら、政府が日系アメリカ人にしたことに対して恩赦するのは私であるべきだ」と述べたという(if anyone should do any pardoning, I shoud be the one pardoning the government for what they did to the Japanese-American people)。

1983年11月10日、戦時中にコレマツの裁判が行われた同じ法廷で、再審が行われた。

傍聴席には300人余りの日系人らが詰めかけた。

コレマツは判事に促され、異例の数分の短いスピーチをした。そして最後に静かに「政府が自分たちの過ちを認め、人種、信条、肌の色に関係なく、どんなアメリカ市民にもこのようなことが二度と起こらないようにしてほしいと思っています。」(I would like to see the government admit that they were wrong and do something about it so this will never happen again to any American citizen of any race, creed or color)と述べた。

この時の様子を、弁護を担当したアイアンズ弁護士は「今まで聞いた中で最もパワフルなスピーチで、キング牧師の「I Have A Dream」の演説と同じような力強さを感じた」と語っている。アイアンズ弁護士はキング牧師が演説を行ったその場にもいたそうである。

そして。

判事はコレマツが1944年に最高裁で受けた有罪判決取り消しの裁定を下した。

アイアンズら、コレマツの司法チームは「コラム・ノービス再審請求」という闘争手段を用いた。

コラム・ノービスとは、元の裁判の有罪判決に、有罪を逆転すべき重大な不正・欠陥があると主張する法的手段である。この主張が認められたため、これが戦中にコレマツを裁いた最高裁裁判が「史上最悪の裁判」と後に評価されることになったゆえんである。

裁判の評決とは別に、1988年にレーガン大統領、1992年にブッシュ(父)大統領によって「日系アメリカ人への人権侵害」に対して公式に謝罪がなされ、強制収容された生存者、またはその子孫に最終的に総額16億ドル、一人あたり20,000ドルの賠償金が支払われた。

コレマツはその後、1998年にはクリントン大統領から、文民が受章できる最高位の栄誉勲章である「大統領自由勲章」を受章した。叙勲に際し、クリントン大統領は「私たちの国の絶え間ない正義の探求の長い歴史の中に、今日、私たちはフレッド・コレマツの名前を加えます」と述べた。( 称えられるフレッド・コレマツ

写真)1998年、大統領自由勲章を受章したコレマツ

出典)Photo by Shirley Nakao, courtesy of the Korematsu Institute

2005年にコレマツは死去したが、関係者の地道な運動により、その後、コレマツの行動は大きく評価されることとなった。

近年になってであるが、アメリカ各地で、コレマツの誕生日である、1月30日を「フレッド・コレマツの日」として記念日に制定する動きが全米の自治体で起きている。

2010年に当時のカリフォリニア州のアーノルド・シュワルツェネッガー知事が1月30日を「フレッド・コレマツの日」とする法案に署名し、この日がカリフォリニア州の公式な記念日となったのを皮切りに、以降「ハワイ州」「バージニア州」「フロリダ州」「アリゾナ州」でそれぞれの知事が署名、1月30日が記念日に認定された。

2014年には、米国公民権委員会が、1月30日を国民の祝日とするよう、米国議会に対して承認するよう、大統領に対しては大統領令を出すよう、勧告している。(米国公民権委員会 報道発表2014.3.31

現在はユタ、イリノイ、ジョージア、サウスカロライナ、ペンシルベニア、ミシガンの各州が記念日創設に追従の動きを見せており、2018年にはニューヨーク市が「コレマツの日」を記念日に制定した。

そうした中、先月、1月30日、ニューヨークに隣接する隣のニュージャージー州で大きな動きがあった。

ニュージャージー州のマーフィー知事がこの日を正式に「コレマツの日」として州の決議書に署名、正式に法律が発効したのである。州として全米で6番目の「コレマツの日」の認定である。

写真)1/30の署名式に招かれた、左から、古本武司さん、カレン・コレマツさん。マーフィー・ニュージャージー州知事、その後ろは森ニューヨーク総領事館大使

出典)フィル・マーフィー州知事公式twitter  @GovMurphy

知事の決議書への署名後に、ニュージャージー・フォートリー市で報告会が行われた。フォートリー市は州に先駆けてコレマツの日を制定した、アジア系の住民が多く住む街だ。署名に立ち会った、コレマツの娘である、カレン・コレマツさん(コレマツ公民権運動研究所主宰)に、ここでお話を伺った。

ー 今日、知事が(決議に)署名した時、どう思いましたか?

カレンさん「父がここにいればよかったと思います。父はとても謙虚な人でした。(今回は)彼自身だけでなく、日系アメリカ人コミュニティ全体が、このような評価を受けたのです。レーガン大統領が署名した時、80年代でしたが、(強制収容所に)投獄された経験がある日系の議員たちが議会で証言した時、多くの議員がそのことを知りませんでした。教科書に載っていないことなんです。ですから、私たちは今、全米の生徒たちのために、この時代を知ることができるカリキュラム(を利用できるようにするため)の手助けをしているのです。それが自分自身を助け、地域社会を助けることになるのです」。

また、その後のスピーチで、報告会に同席したフォートリー市の地元議員たちに、こうも語った。

「若い人たちに 『自分は変われるんだ』と勇気づけたいのです。一人の人間が逆境に直面しても、変化をもたらすことができるのです。(中略)人々は無知です。偏見とは無知なものです。偏見と戦う唯一の方法は、教育です。だから、市議会、あなた方、みなさんの役割はとても重要です」。

同じく署名に立ち会い、今回の法案成立に尽力した人がいる。

その人は、地元で不動産屋を経営する、日系人、古本武司さんという。古本さんには昨年にも、お話を伺っていた。

(興味がある方は、昨年のこちらのインタビューを。強制収容所生まれ日系ベトナム帰還兵の思い)。

古本さんは強制収容所で生まれ、人種差別が激しかったアメリカで、ベトナム戦争に従軍し、フレッドとはまた別の、戦争の地獄を見てきた人だ。コロナ禍を通して、今回のニュージャージー州の法案実現までには2年半かかったという。

古本さん

「アメリカにはいろいろな人種がいて、いろいろ難しいこともあるかも知れないが、我々がそれをリードして、いい国を作っていかなければなりません。この日をみなさんと祝うことができてとても感謝しています」。

最終的なゴールは「国民の祝日にすること」であると言う。

州のコレマツ記念日設立に尽力した古本さんだが、次に目指すのは、許可を取るのに6年かかったという地元でのダイバーシティ(人種などの多様性)・パーク」建設構想であるいう。

「この地元には23の人種が集まっており、ここにダイバーシティ・パーク(建設)が実現できるのをとても期待しています。」日本からも建設資金の提供があり、桜が植えられた公園になるという。

古本さんは日米にまたがる活動の功績を評価され昨年、日本政府から旭日単光章を受章している。

今年で戦後78年。

バイデン大統領は大統領令9066号が署名されてから79年目を迎えた翌日の昨年、2021年2月19日「日系米国人はただ出自のみによって標的とされ、投獄された。連邦政府の行いは不道徳で、憲法に反していた。これらの政策によってもたらされた日系アメリカ人の苦しみに対し、連邦政府の正式な謝罪を再確認する」として政府として再度、謝罪を表明した。(ジョー・バイデン大統領が語る日系アメリカ人抑留の記憶

動画あり:是松豊三郎~アメリカ政府を相手に闘った男 【柏原雅弘のマンハッタンリポート】

トップ写真:是松さんら3人の日系アメリカ人が記者会見に臨む様子(1980年代、シアトル)

出典:photo by Bettmann/ getty images

 




この記事を書いた人
柏原雅弘ニューヨーク在住フリービデオグラファー

1962年東京生まれ。業務映画制作会社撮影部勤務の後、1989年渡米。日系プロダクション勤務後、1997年に独立。以降フリー。在京各局のバラエティー番組の撮影からスポーツの中継、ニュース、ドキュメンタリーの撮影をこなす。小学生の男児と2歳の女児がいる。

柏原雅弘

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."