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.国際  投稿日:2023/7/27

「中台戦争2027」(下)   ロシア・ウクライナ戦争の影で その3


林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・「台湾は歴史的に中国の一部である」が、中国の公式見解。

・この主張は、正しい歴史認識の上に立脚したものではない。

・太平洋の覇権が米中で二分されれば、台湾は斬り捨てられる。

 

「台湾は歴史的に中国の一部である」

 これが中国(=共産党政権)の公式な見解である。

 しかしながら当の台湾には、そのような歴史的事実は存在しない、と主張する人たちの影響力が増してきていると前回述べた。

 具体的に、どういうことか。

 漢民族=大陸の中国人も、文献で見る限り古来この島の存在は知っていたが、領土的野心の対象でなく、それどころか日本人の海賊=倭寇の拠点であり、風土病もあったことから「化外(けがい)の地」などと称していた。危険地帯というに近い意味だとされるが、字面から、もっと差別的なニュアンスであったことは容易に想像がつく。

 ところが15世紀半ばに大航海時代の幕が開けると、にわかにこの島が注目されるようになったのである。

 最初にこの島を「発見」したのは、ご多分に漏れずポルトガル船で、飲料水を求めて寄稿したとも、たまたま漂着したとも言われるが、緑豊かな風景に感銘を受け「イリヤ・フォルモサ=麗しい島」と名づけた。今でも文献には「美麗島」の表記を残したものがある。

 その後、1624年にはオランダ東インド会社が島の南部一帯を占領し、植民地化に乗り出したが、彼らオランダ人を含め、前述の倭寇や華僑など、原住民族から見れば「よそから来た人たち」が多かったことから、現地語の「ターヤン(渡来人・客人といったほどの意味)」が「タイワン」と訛り、やがて台湾と漢字を当てるようになったものらしい。ただし中国・台湾ともに、政府の公式資料の中では「語源は不明」とされている。

 歴史の偶然とは面白いもので、その同じ1924年に、日本の肥前国平戸島(現・長崎県平戸市)で、鄭成功が誕生した。華僑の鄭芝龍を父、日本人の田川マツを母とする、今風に言えば日中のハーフで、田川福松という日本名も授かった。

 7歳の時に父の故郷である福建に渡るが、幼かった弟の次郎左衛門は母と共に日本に残り、やがて田川の家督を継いで、日本人としての人生を全うする。長崎で商人として成功し、実兄が台湾での政治活動に乗り出すや、資金や物資の援助を行ったという。

 オランダ東インド会社に話を戻すと、台湾南部が砂糖の生産に適していることを知るや、対岸に当たる福建などから、多数の漢人を労働者として招き入れ、プランテーション経営に乗り出した。

 ところが1610年代に満州族の王朝である後金が勃興し、やがて明王朝を滅ぼして国号を清と改めると(1636年)、漢民族である明国の遺臣は、日本を含む各地に亡命したり、中には亡命先で私兵を組織し、清国に対する抵抗運動に乗り出す者もいた。

 鄭成功もその一人で、もともと密貿易に関与していたことから私兵を擁しており、福建から台湾に脱出した後は、前述のように労働者として集められていた漢人を組織して、ついにはオランダ東インド会社の勢力を台湾から駆逐し、鄭氏台湾と呼ばれる独立王朝を樹立するまでになった。

 この鄭氏台湾は、清朝からの圧力と内部抗争の結果、1663年に崩壊。翌1664年、台湾はその全土が福建省台湾府として、歴史上初めて中国の版図に組み込まれた。

 現在に至るも国民党支持者の間では、鄭成功は孫文(党の創立者)、蒋介石(中華民国総統)と並ぶ「三大国父」と呼ばれているそうだが、いずれにせよ前述のように、1664年に清国の版図に組み入れられて以降、漢人の移住が急増した。人口密度が低く、水田耕作や砂糖や茶の生産に適した未開の農地がふんだんにあり、福建などの貧しい農民の目には、フロンティアだと映ったのである。

 ただ、清国がこの移住を奨励することはなく、むしろ逆であった。移住するに際しては、役所の承認が必要で、しかも妻子の帯同は認められなかった。満州族の王朝である清国にしてみれば、台湾が漢民族の天下となった上で、反旗を翻すことを警戒していたのだ。

 本当に、歴史とは面白いものだと思えるが、古くは海賊と風土病の脅威をはらんだ「化外の地」で、近世以降は一度ならず二度までも、来陸の中央政権に対する抵抗の拠点となったのである。

 以上を要するに、台湾は「歴史的に中国の一部」だという、北京の共産党政権の主張は、正しい歴史認識の上に立脚したものではないと、私は考える。

 しかも、清朝の版図に組み入れられていた期間は、30年ほどでしかない。1864年に勃発した日清戦争で日本が勝利し、翌1895年に締結された講和条約(=下関条約)により日本に割譲され、世に言う日本統治時代が始まるのである。

ただしこの期間も60年ほどで、1945年8月に日本がアジア太平洋戦争に敗れた結果、中国に主権が戻ることとなる。ここで言う中国とは、1911年の辛亥革命で清朝を打倒した中華民国である。

その後の経緯は、すでに述べたことなので繰り返さないが、もう一度確認しておきたいのは、台湾の主権は、現地で生まれ育った人たちの意思と関わりなく、諸外国が引き起こした戦争や、いわゆるパワー・ポリティクスによって変遷を強いられてきた、ということだ。

今次、米国や日本にまで緊張をもたらしている台湾海峡危機も、その焦点は「習近平の野心」である。このことも、前回述べた。

シリーズの最初の方で、もしもプーチンの思惑通りウクライナが4日程度で制圧されていたならば、台湾をめぐる状況も変わっていた可能性があると述べたのは、話がここにつながってくる。

電撃戦の目論見が外れたプーチンは、中国に対して、兵器弾薬など戦争資材の提供を求めたが、にべもなく拒否された。これはしばしば、昨年2月4日に行われた首脳会談の裏で交わされた、

「北京冬季五輪の期間中は軍事作戦を発動しない」

 という密約が反故された、その意趣返しである、などと語られるが、そこまで単純な話だろうか。戦争が泥沼化しつつあった昨年夏には、

「北朝鮮人民軍が10万の精鋭をウクライナに送り込むことを計画中」

 などという情報も流れたが、私の旧知の韓国人ジャーナリストなどは、

「中国と韓国が、そんなことをさせるはずがないですよ」

 と一笑に付していた。そして事実、この派兵も実現していない。

 一方、西側諸国からの制裁で売れなくなった、ロシアの天然ガスなどを、中国が安く買いたたき、新型コロナ禍による経済的ダメージからの回復に役立てていることは、今や周知の事実である。

 もちろん、中国共産党としては、プーチン政権の崩壊はなんとしても避けたいだろう。明日は我が身、と昔から言う通りだ。

 そうではあるのだけれど、日韓、さらにはNATOまでも敵に回す選択をして、ロシアと「心中」する道を選ぶはずもない。どうする習近平、というところだが、現状では彼の最大の関心事は南(台湾問題)よりも北(ロシア・ウクライナ情勢)ではないかと考えられる。

 もちろん不安要素は多々あるが、2027年に中国が台湾に武力侵攻する、という話は、いささかこじつけめいているので、にわかには信じがたい。

 むしろこの問題は「2050年まで」というスパンで見るべきではないかと思う。

 2049年は中華人民共和国の建国100周年だが、それ以上に、中国はこの年までに「GDPで米国を追い抜き、世界一の経済大国になる」

 との国家戦略目標を掲げている。これがもし実現すれば(やはり不安要素も多々あるが)、太平洋の覇権は米中が東西で二分することとなり、台湾は斬り捨てられる、という事態も考えられる。いや、むしろ、経済的に取り込まれることを通じて、なし崩し的に中国の一部に「取り込まれてしまう可能性が大きいのではないか。

 昨年、ロシアによるウクライナ侵攻が起きた直後、私は本連載の中で、こうした事態を招いた要因のひとつは、

「プーチンの世界観が100年単位で古い」

 事にあると述べた。

 次回、この問題をあらためて掘り下げてみたい。

(その4に続く。その1、その2

 

トップ写真:台北世界貿易センターと台北101の眺め  台湾・台北

出典:GoranQ/GettyImages




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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