バブル時代の歩き方(下)~ロンドンで迎えた平成~その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・プラザ合意に端を発した資金の過剰流通。
・バブル景気同様、「失われた20年」もロンドンまで波及。
・バブル期が終わった今、企業名を見ても日本の会社か認識はされない。
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私は実は(と言うほど大げさなことでもないと思うが)、株を買ったことがない。したがって新聞の証券欄などは無用の長物だが、株価の動向がまったく気にならないと言えば、それも嘘になる。
なんだかんだ言っても、政権の支持率をはじめとする民心の動向は、景気と無関係ではあり得ないからだ。とは言え、ものには限度ということがある。日本がバブル景気に沸いていた当時、あるエコノミスト(元共産党員だったとか笑)が、「今時、株に投資しない人は、世捨て人と一緒」などと述べた。
私は、ひねくれ者であるとの自覚は持っているが、ジャーナリストとして社会に関わってきたとの自負も同時に抱いているので、世捨て人扱いは、はなはだ心外である。
もっとも、この御仁がバブル崩壊のせいで破産したとかいう話は聞かないから、案外、自分の財産を投機につぎ込むようなことは、していなかったのではないだろうか。だとすれば、それもそれで、言論人としていかがなものかと思うが。
バブルとはとどのつまり、投機マネーによって引き起こされた、株価や不動産価格の暴騰を背景とした「帳簿上の好景気」であったことは、前回述べた。
少しだけ付け加えさせていただくと、私見ながら、株価と不動産価格が同時に暴騰したと言われるが、お金をつぎ込んだ人の側から見れば、似て非なるものであったというケースも、かなり多かったのではないだろうか。
老後の資金を確保しようと、退職金を株につぎ込んだというような人も、中にはいたであろうが、そうした例も含めて基本的には「財テク」であり、当然そこにはリスクがある。
当時、そのうちNTT株が1000万円になる、などということが実際に言われていたが、本当にそんなことになったら、NTTの株価総額が、当時の西ドイツ国籍企業全部のそれに匹敵する、とまで言われた。
そんな話を鵜呑みにした人たちの方が、私に言わせれば「浮世離れ」していたのだが、その話はさておき。不動産価格の方はと言えば、当時はなにしろ、好景気で給料がどんどん上がっていたとは言え、住宅価格はそれをはるかに上回る勢いで高騰していた。とどのつまり、「無理をしてでも今買っておかなければ。一生マイホームに住めなくなる」と考えた人が少なからずいて、それが不動産マーケットを加熱させ、さらなる価格高騰をもたらす、という現象が起きていたのである。
そうした事情があったとは言え、「山手線の内側の不動産総額で、米国全土が買える」などと試算されるに至っては、それこそ『バブルへGO』という映画の中でヒロスエが連発していた台詞を真似るなら、「あり得なくね?」という話ではあるまいか。
もともと、政策的に引き起こされた円高のせいで(1985年の、世に言うプラザ合意)、輸出産業が打撃を受けたことから、思い切った金融緩和で内需拡大を目指したのが、バブルの発端である。銀行が低金利でカネをどんどん貸すものだから、カネ余り現象と言われるほど、資金の流通が過剰になり、それが投機市場に流れ込むこととなった。
▲写真 プラザ合意が行われたプラザホテル 出典:Wikimedia Commons
株や不動産だけではなく、美術品などもマネーゲームの対象となり、とどのつまりは、「カネがカネを生む」という幻想から、皆が逃れられなくなってしまったのである。
実体経済とかけ離れた景気の過熱がいかに危険かは、ここで詳述するまでもないことで、日銀が「バブル退治」に踏み切ったこと自体は、当然と言えば当然のことだ。少なくとも、タイムマシンを使って阻止しに行きたくなるほどの愚策であったとは、私は思わない。とは言え、結果論であることを承知で言わせていただければ、やり方があまりに拙速で、なおかつ乱暴すぎた。
1990年3月の、総量規制=土地関連融資の抑制を皮切りとする、急激な金融引き締めが、いわゆるバブル退治の実態だが、この結果日本は「失われた20年」と称される、戦後最長にして最悪規模の不況に突入することとなる。
バブル景気の波が、地球を半周して英国ロンドンにまで及んだことはすでに述べたが、不況の波も、容赦なくロンドンにまで及んだ。バブルの時期には、中小の証券会社から地方銀行までがロンドンに駐在員を送り込み、それにともなって、日本レストランや前回紹介したカラオケ・バー、ラーメン店などの新規開店が相次ぎ、日本人駐在員向けの不動産屋、医療機関に美容院、ついには「日本人専用の英語学校」がロンドンで開校する(これまた、あり得なくね、だが)までになったのである。こうした「バブリーな」経営者たちは、バブル崩壊にともなって、続々とロンドンから撤退に追い込まれたことは、言うまでもない。
もう時効だと思うので書くが、バブル期に、オフィス機器を扱う会社を急成長させ、メルセデス・ベンツの最高級モデルを乗り回していた人が、3年後になにをしていたかと言うと、日本からいわゆる風俗嬢を観光ビザで呼び寄せて、大々的に広告などは出せない「サービス業」に転向していた、という例まである。車も中古の日本車になっていた。
繰り返しになるが、バブル景気が実体経済とかけ離れたものであった以上、こういったことも、遅かれ早かれ起きたに違いない。しかし、この場合の「遅いか早いか」は、結構大きな意味を持っていたのではないだろうか。
さらに言えば、日本経済が急激に凋落したことで、ロンドンにおける日本人ビジネスマンのステータスも、だいぶ違うものになってきた。かつては、あのマンチェスター・ユナイテッドのメインスポンサーがSHARPであったのをはじめ、多くのクラブが、胸に日本企業のロゴを大書したユニフォームを着用していた。つまり、日本企業の名は、ホワイトカラーのビジネスマンにとどまらず、サッカーを愛する労働者階級の間にも知れ渡っていたのである。
▲写真 SHARPがスポンサーだった時代のユニフォーム 出典:Flickr; edwin.11
それが、今や日本企業の名刺を持っていてさえ、「あなたは中国人?それとも韓国人?違うの?それじゃ一体、どこの人?」という扱いを受けることも、珍しくなくなってきていると聞く。
「バブルなんて、間違ってた。それは百も承知の上でね」と、ある日本人ビジネスマンが溜め息混じりに語った言葉が、今も耳に残っている。「だけど、あの頃の日本には、まだ〈なにかがあった〉という気がしてならないんだよね」
トップ写真:株価ボード(イメージ) 出典:フリー素材.com
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。