五輪・スポーツの描かれ方(上)忘れ得ぬ一節、一場面 その5
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・漫画『三丁目の夕日』や映画化作品、小説『江分利満氏の優雅な生活』に感じる昭和30年代。
・1964年東京五輪開催当時、日本人はみんな上を向いていた。
・2020年東京五輪は、このままでは「史上最悪の大会」となりかねない。
もう何年も前の話になるが、少林寺拳法連盟の若手(1980年代生まれ)職員から、妙な質問を受けたことがある。
「信吾さん(少林寺ではこう呼ばれている)の子供時代というのは『ぼくの夏休み』とか、あんな感じだったんですか?」
そういうタイトルのRPG(ロール・プレイング・ゲーム)があることくらいは知っているものの、試したこともないので答えようがなかったが、まあ質問の趣旨は分かったので、結局こう言ってやった。
「いや、俺の原風景というのは『三丁目の夕日』という漫画なんだよね」
すると彼の方では、その漫画を知らないという。昭和30年代の東京を描いたノスタルジックな漫画だと説明したところ、
「今度、漫画喫茶で読んでみようかな」
だと。まったく近頃の若い者は。ゲームばかりしてないで漫画くらい読め!
……という話ではなくて。
西岸良平の代表作のひとつで、小学館『ビッグコミックオリジナル』誌上にて1974年から連載されている。設定は昭和30年代。都内の架空の町「夕日台三丁目」で暮らす無名の人々の日常を描いた漫画で、当時の遊びとかヒットしたTV番組とか、まさしくノスタルジックな描写がたまらない。
2005年に『Always 三丁目の夕日』というタイトルにて、実写映画化された。
迷わず映画館に足を運び、期待にたがわぬ出来ではあったが、原作に忠実とは言えない。
主人公は三丁目で「鈴木オート」という自動車修理工場を営む一家なのだが、集団就職で上京してきて住み込みの従業員となる「六さん」が、なんと女の子になっていた。
演じたのは堀北真希で、この年『野ブタ。をプロデュース』というドラマでブレイクしたのだが、私はこの映画が瞥見だった。可愛らしい子だな、とは思っていたが、映画を見た数日後、たまたま週刊誌のグラビアを見ることがあって、
(こんな美形を、あんな田舎娘に仕立てたのか。逆にすごいな)
などと妙な具合に感心したことを、今でも覚えている。もったいなくも結婚・引退したが……という話でもないのだが、この映画はなかなか当たって続編も作られた。
3作目が『Always 三丁目の夕日’64』で、タイトルからも分かる通り、東京五輪の年の世相が描かれている。特に印象に残ったのは、三丁目の人々が、
「せっかくチケット当たったと思ったのに、なんでサッカーなんだよ」
「なかなか点入らないし、ありゃ人気出ないな」
などと言い交しながら家路につくシーン。まあ、当時の日本におけるサッカーの認知度は、本当にこの程度であったかも知れない。
▲写真 東京オリンピック サッカー三位決定戦 独vsアラブ連合共和国(1964年10月23日) 出典:Photo by Bettmann Archive/Getty Images
もうひとつ、航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」が、東京上空に五輪を描くシーン。映画の中で、三丁目の人々も総出で空を見上げていたが、6歳だった私も実際にこの五輪を仰ぎ見た記憶はある。
今次もブルーインパルスが出たものの、前回ほどには盛り上がらなかったようだ。開会式さえ無観客で、しかも前回紹介した通りのグダグダでは、無理もない。
この映画や原作の漫画を読んで、まず思わされることは、
(やはり当時の日本人は、みんな上を向いていたのだな)
これに尽きる。昭和30年代のノスタルジーと言うと、
「貧しかったけれど、のどかで楽しかった」
と考える向きも多いようだが、それは間違いである、とも主張し続けてきた。
敗戦後の貧しさから劇的に脱していった時期であり、その分みんな猛烈に働いていたことは、労働時間や賃金・物価紙数などの経済指標を見れば一目瞭然なのである。
山口瞳の直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』は、まさにこの時代のサラリーマンの暮らしを描いた、自伝風のようなエッセイ風のような、いささか変わった小説だが、こんな一節がある。
「残業手当が本給を上回って、だからたしかに所得倍増なのだが、疲れるから帰りに飲んだり、車で帰ったり、出張の際に一等寝台をおごったりと、結局そうはプラスにならない」(新潮文庫版より抜粋)
また、映画にもちらと出てきたが、肉屋のオヤジがトランジスタラジオのイヤホン(なんだそれ、と今言ったガキ、もとい、若い読者は、検索していただきたい笑)を耳にさしっぱなしにして、株価をチェックしたりする。仕事より蓄財に精を出しているという意味で、多分に皮肉がこもっていたのであろうが、ボディビルをもじった「マネービル」という言葉も、当時は流行語になっていたようだ。
こうした人たちのおかげで、当時の日本経済が拡大局面を維持することができ、高度経済成長期を下支えしたこともまた事実で、そうであるからこそ、仕事の後の一杯、というささやかな幸福だけで満足し、金銭には恬淡としている三丁目の人々の姿を見て、ある種の心地よさを得られるのではないだろうか。
ちなみにこの映画、1964年の東京五輪をモチーフにしているが、記録映像を含め、競技や式典の映像は、まったくと言ってよいほど出てこない。
それでいて、五輪が開催されたことが全国の人々の気分をいかに高揚させたか、まことによく伝わってくるのだ。
7月27日、東京の新型コロナ感染者数は、ついに3000の大台に乗った。
菅首相らは、五輪開催と感染拡大の因果関係は認められない、と繰り返すのみだが、どれだけの人がこの言を信じるだろうか。
▲写真 7月29日、東京都が発表した新型コロナウイルスの新規感染者数は3日連続で過去最高を記録。 出典:Photo by Yuichi Yamazaki/Getty Images
開会式にノーマスクの集団が登場した際も、資格停止・国外追放どころか「ルールは守って欲しい」で終わった反面、飲食業界への締め付けは相変わらず。
それも、経営者は協力金がもらえるのでまだよいが、パート主婦やバイト学生は収入を絶たれて、将来に希望を持つことさえ難しくなってきている。いくら日本がメダルラッシュとなろうが、こうした人たちがその喜びを共有できるであろうか。
▲写真 反オリンピック・デモ(2021年7月29日、東京) 出典:Photo by Zhizhao Wu/Getty Images
アスリートたちが五輪出場のために払ってきた熱意や努力を想えば、なんとか開催してもらいたいし、開催したからには、なんとか無事に日程を追えてもらいたい。
……今までこのように主張してきた者としては、本当に忸怩たる思いだが、このままでは今次の東京五輪は、後世「史上最悪の大会」と総括されかねない。
せめてもの希望は、今次のことを教訓として、利権まみれのIOCの体質はじめ、五輪の在り方を全面的に見直そう、との動きが出るころだが、いくらなんでも「けがの功名」を期待しなければならないとは、情けない限りである。
トップ写真:東京オリンピック ブルーインパルスが描いた五輪(1964年10月10日) 出典:Photo by Bettmann Archive/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。