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.社会  投稿日:2023/1/31

神も仏も酒が好き(下)酒にまつわるエトセトラ その6


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録


【まとめ】

・「清酒」の始まりは、仕込み途中の酒樽に灰が投げ込まれてできた酒が澄んでいたこと。

・船で運ばれてきた「下り物」と呼ばれる酒が「くだらない」の語源。

・今世紀に入ってから日本酒の輸出額は毎年過去最高額を更新。

 

西暦1600(慶長5)年のことである。

この年の10月21日、関ヶ原の戦いが行われ、戦国時代も終焉に向かおうとしていた。

同じ頃、現在の兵庫県伊丹市にあった鴻池の酒造で、不祥事(仕入れの金を着服したとされる)により解雇された男が、腹いせに仕込み途中の酒樽に灰を投げ込んで逃げた。

これこそ資料で確認できる、本邦初のバイトテロ……という話ではなくて、鴻池の蔵元が樽を調べたところ、酒が澄んでいた。味も悪くない。酒はもともと酸性だが、灰のアルカリ性で中和されることによって、腐りにくくもなった。

これに想を得て、試行錯誤の結果、現在では日本酒と同義語になっている「清酒」が産み出されたと広く信じられており、伊丹市には「清酒発祥の地」という碑がある。

この鴻池の蔵元だが、伝承によれば、戦国時代、中国地方で一定の勢力を持った尼子家に仕え、毛利の大軍に包囲された際、月に向かって、

「我に七難八苦を与えたまえ」

と祈ったとされる、山中鹿之助の遺児を祖とする。尼子が滅亡した後、武士を捨て、摂津まで流れてきて酒造で身を立てる決心をしたそうだ。

 前回述べたように、鎌倉時代から各地で酒の醸造が盛んになっていったが、もともとは白濁した「どぶろく」が主流であった。国税庁や酒造メーカーの資料によれば、どぶろくと濁り酒は厳密には別物であるが、本稿では「どぶろく」で統一する。

話を戻して、鴻池の蔵元では従来の醸造法を改良し、三段仕込みと呼ばれる独自の技術を採用した結果、清酒の大量生産が初めて可能になった。

もともと「清い酒」と書くのは、酒=どぶろくを造った際に生じる上澄みが身分の高い人たちに供され、下の濁った部分が家人(下級役人)に分け与えられたからだとされている。

ともあれこうして造られるようになった鴻池の酒は、その多くが江戸で消費された。

その理由のひとつは、京都の蔵元たちが「他所酒」の流入で市場を奪われるとして、有形無形の圧力を加えたからでもあるようだが、江戸では酒の本場は上方だと認識されて、船で運ばれてくる酒を「下り物」と呼んで珍重した。

関東でも酒造りは行われていたが、品質の点でどうしても上方のそれにかなわず、こちらは逆に「くだらない酒」と呼ばれた。読者ご賢察の通り「価値がない」と同義語で「くだらない」と言うようになったのは、ここから来ている。

ともあれ、その鴻池は酒の販売で巨利を博し、その資金を元手に両替商を始めた。今で言う金融業で、1674(明暦2)年以降は大阪の今橋に本店を構え、江戸末期には、

「日本の富の七部は大阪にあり。大阪の富の八部は今橋にあり」

と言われるまでになった。西日本を代表する富豪として、上方落語や芝居にもその名が登場するし、紀州徳川家や新撰組も鴻池から金を借りていた。酒蔵の方は廃れてしまったが、鴻池財閥の商脈を受け継いだのが三和銀行である。

江戸時代にはまた、それぞれの蔵元が清酒に商品名(銘柄)をつけるようになった。

当初は「助六」「猿若」など、歌舞伎役者にあやかった名が主流だったと資料にあるが、昨今「團十郎」や「芝翫」を売り出したら、おそらくネットで総ツッコミ……という話ではなくて、1717(享保2)年に創業された灘の酒造も「薪水(しんすい)」という銘柄で酒を売っていた。言うまでもなく、歌舞伎にちなんだものである。

しかし当主は、この名前は響きが女性的で、酒の銘柄としてはいかがなものか、と思い悩んでいたという。

1840(天保4)年のある日、当主が懇意にしていた住職のもとを訪ねた際、机の上にあった経典の表題に目がとまった。「臨済正宗」と書かれている。

これでおそらく、天啓を得たのであろう。早速、酒の銘柄を「正宗」と改めたところ、江戸でベストセラーとなった。

本当は「せいしゅう」と読ませる。「清酒」と語呂が合って縁起がよい、というのが当主の考えであったようだ。

しかし江戸っ子は皆、これを「まさむね」と読んだ。

推測の域を出ない話だが、有名な戦国大名で仙台藩の開祖である伊達政宗から想を得たのかも知れない。当時、仙台藩から運ばれてくる米が、江戸っ子の主食となっていた。

いずれにせよ、以降、正宗と名づけられた酒が各地の蔵元から売り出されるようになったが、明治の世となって、このことから問題が生じた。

1884(明治17)年に商標条例が施行されたのだが、元祖の蔵本は当然のように「正宗」の商標登録を願い出た。しかし明治政府は、同じ銘柄の酒が多いことを理由に、

「正宗は普通名詞である」

との判断を下したのである。やむをえず国花の名を冠した「櫻正宗」で再度出願したところ、今度は認められた。この銘柄は現在も存続している。

前後して「菊正宗」も登録されたが、同様の経緯であったことは言うまでもない。今や知名度ではこちらの方が上であろう。

この「菊正宗」も、やはり灘に本拠を置く嘉納家が蔵元(厳密に言うと、菊正宗酒造を創業したのは分家)で、この嘉納家も明治以降は、酒造以外の事柄でその名を知られるようになった。

ひとつは、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎を輩出したことと、いまひとつは、彼が毎年多くの東大合格者を出すことで知られる灘中学(現在の灘高・灘中)を創立したことだ。

もともと治五郎の父・治郎作も、幕末の動乱期に勝海舟に説得されて、神戸海軍操練所の設立に資金を拠出した。その縁で、明治政府から招かれて上京し、当時9歳だった治五郎は東京で教育を受けるようになった、という経緯である。

東京オリンピックについてのシリーズでも触れたが、東大出の教育者でもあった嘉納治五郎は「精力善用」をスローガンに掲げて体育の充実を訴え、1940年のオリンピックを日本に誘致したことでも知られる。日本が戦時体制に移行し、さらには第二次世界大戦が勃発したことにより、大会そのものが中止となったが。

その後アジア太平洋戦争で日本は敗戦の憂き目を見たわけだが、酒の歴史においては、沖縄の地上戦で同地の酒蔵が壊滅的な打撃を受け、古酒(クースー)の多くが失われたことが挙げられる。

本土でも、酒の流通どころではなくなり、本物の酒は通貨と同様に扱われた。

つまりは、本物でない酒が大量に出回ったわけだが、当時の世相を描いた小説等を読むと、しばしばメチルアルコールの名を目にすることになる。

消毒用エタノールの別名だが、たしかにアルコールの一種だから、酒の代用になったのかも知れない。しかし、視神経に有害な物質が含まれていることから、飲むと失明する、という話もかなり広まっていたようだ。だったら飲まなければよいのに、と思うが、それでは済まされないのが酒の魔力というものなのだろう。

そのような時代を経て、日本は国際社会に復帰し、強大な経済力を持つ国として世界から認知されるまでになった。

平行して日本酒の輸出額も右肩上がりとなり、特に今世紀に入ってからは毎年過去最高額を更新し続ける勢いだ。幸か不幸か、新型コロナ禍で「家飲み」が増えたことも関係していると聞く。

最大の輸出先は米国であったが、2021年に中国に取って代わられた。伸び率で言うとフランスが最高となっている。

こうした背景から、スパークリングの日本酒や、ウォッカ並に度数の高い銘柄も見受けられるようになった。そんなものは日本酒ではない、などと言う人もいるようだが、私の考えはまったく異なる。

ここまで読まれた方には、今更くだくだしい説明も不要だろうが、日本の酒と言っても昔と今とではまるで別物だし、長い試行錯誤の末に現在の姿となったのである。諸外国の様々な酒も同様だ。

どうしても「日本古来の酒」だけを飲みたいと言うのであれば、巫女さんに米をよく噛んでから吐き出してもらい、あとは自然発酵するのを待つしかない。

これはあながち冗談ごとではなくて、嗜好品にこだわりを持つのはよいが、度を超すと嫌みにしかならない。

次回は、ワインに絡んで、その話を。

(つづく。その1その2その3その4その5

トップ写真:姫路市灘菊庄造酒造に置かれている日本 出典:Photo by Buddhika Weerasinghe/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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