不祥事でのトップの処し方 大川原事件の謝罪、検事正、総監なぜ来ぬ

樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)
【まとめ】
・大川原化工機の冤罪事件で、東京地検と警視庁が被害者の同社社長らに謝罪。
・検事正、総監の姿はなく、誠意を疑う向きがある。
・不祥事が起きた時、責任を取らないトップ部下の信頼を失う。
■ 東京地検の部長、警視庁からは副総監
大川原正明社長と元取締役を6月20日、横浜市の本社に訪ねたのは、東京地検の森博英公安部長と警視庁の鎌田徹郎副総監。
メディアが見守るなか、それぞれ「起訴と拘留で多大なご負担をおかけした。適正に検察権を行使する」、「捜査によりご心労をおかけした」などとお詫びの言葉を述べ、深々と頭を下げた。同様に長期間拘留され、その途中でガンを発症、死亡した元顧問の家族は出席を拒否した。
■ まるで「真昼の暗黒」、信じがたい捏造
大川原化工機の問題に簡単に触れると、軍事転用可能な噴霧乾燥機を無許可で輸出したとの疑いをかけられ、大川原社長らが2020年3月、逮捕起訴されたのが発端。翌年初公判直前の翌21年、東京地検が突然、起訴を取り下げて3氏の冤罪が晴れた。
拘留はいずれも1年近くに及び、途中で胃ガンを発症した元顧問は再三の訴えにもかかわらず、外部の病院での治療を許されず、起訴取り下げの直後、なくなった。
会社側が起こした損害賠償訴訟の過程で、捜査にあたった警視庁公安部の担当官らは、事件が捏造であったことを明確に認めた。
証拠不十分、捜査ミスや判断の誤りではなく、虚構というのだから、あたかも無実の青年が、過酷な取り調べに耐えられず罪を認めてしまう映画、「真昼の暗黒」を連想させた。
これほどの不祥事の謝罪をトップが自ら頭を下げることなく部下に任せた地検、警視庁の判断を、古田徹也東大准教授(倫理・哲学者)は、「重大性の認識がずれている」(毎日新聞、6月21日づけ)と批判、疑問を投げかけている。
■ 過去のケースはいずれもトップが謝罪
静岡県で起きた殺人・放火事件の犯人として半世紀近くも死刑執行の恐怖にさらされ、再審で2024年に無罪が確定した静岡県の袴田巌さんには、静岡地検検事正と静岡県警本部長が謝罪した。
栃木県内で4歳の女の子が殺害された足利事件(1990年)で無期懲役の判決を受け服役、10年に再審で無罪が確定した菅家利和さんに対しても、宇都宮地検、栃木県警本部長に加え、再審の裁判長ら3人の判事が法廷で頭を下げた。
今回、副総監が謝罪の席上、元取締役の名前を間違える失態を緊張のためと割り引くとしても、真剣に反省しているのかという疑念を抱かせる。
20日の謝罪で森公安部長は、起訴検事の謝罪のメッセージを伝えたが、この検事は大川原社長らが起こした国家賠償を求める訴訟の法廷で謝罪を拒否した。
この検事は大阪地検特捜部検事による証拠改ざん事件の際、庁内で検事の行動を問題視していたという(大坪弘道「拘留百二十一二〇日」。文芸春秋社、25頁)。他人を非難しても自分の行動は反省していなかったようだが、今回ようやく謝罪に応じた。
謝罪を受けた大河原社長は「精一杯の謝罪だろう」と語って受け入れる考えを示しており、検察、警察の内部事情もつまびらかではないうちに、第3者があれこれいうのは慎むべきかもしれない。
しかし、違和感は残る。途中で死亡した元顧問の家族も、拒否した理由を、検事正、総監による謝罪ではなかったことを挙げている。
■ トップの判断にかかるその後の展開
組織、部下の不祥事が明らかになった場合、組織の長がどう行動し、身を処すか、はその人個人の名声やキャリアだけでなく、組織そのものの存亡にかかわる。
メディアを賑わしているフジテレビ問題をとってみても、前社長ら最高首脳が早期に被害者に詫び、説明責任を果たしていたら、異なった展開をたどっていただろう。
兵庫県庁の内部告発問題にしても、知事の行動をめぐる通報に対して「ウソ八百」など自ら「ウソ八百」をならび立てるのではなく、非を認めて県民に説明と謝罪をしていれば、県議会で不信任案を可決されることもなく、再選後もメディアの攻撃を受けることもなかったかもしれない。
謝罪とは別だが、トップの身の処し方で驚いたケースに、貸金庫から行員が現金などを盗んだ三菱UFJ銀行の事件の処分(25年1月)がある。
頭取と会長、担当役員は報酬減額わずか30%3か月間だという。被害額は、現金、金塊など10億円を超えるといわれること、頭取自身の「銀行業務の根幹を揺るがす」という言葉を考えれば、事件の深刻さと処分の軽さの乖離が際立つ。
■ 対照的な安倍氏と浅沼氏殺害の対応
22年、安倍晋三元首相が奈良県内で銃撃され殺害した事件で、同県警本部長らが詰め腹を切らされたのはやむを得ないとして、警察庁の中村格長官(当時)も辞職に追い込まれた。
永田町はじめ各方面から辞任圧力があったことは想像に難くない。しかし警察庁は調整機関であり、都道府県警の上級、監督機関ではない。この場合、むしろ警察を監視、監督する国家公安委員長こそが腹を切るべきだったろう。
絶大な権限を持つといっても官僚にすぎない一長官の首をすげかえ、責任ととるべき大臣が職にとどまっているのはどうだろう。
過去の全く正反対のケースを紹介しよう、
大昔の話で恐縮だが、1960年秋の総選挙直前に当時の野党第一党、日本社会党(社民党の前身)の浅沼稲次郎委員長が日比谷公会堂での演説のさなかに刺殺された。
当時の池田勇人内閣の対応は早かった。事件翌日、山崎巌国家公安委員長を更迭、警察庁長官、警視総監ら現場の責任を問うことは一切なかった。山崎委員長はじめ国家公安委員会も自ら、「警察に問題はない」と結論づけた(伊藤昌哉「池田勇人 その生と死」至誠堂、102頁)。「腹を切るのは政治家の仕事」の実践だった。
自ら責任をとらず部下の首をすげ替え、謝罪を押し付けるトップは、侮られ、怒りを買うだけだろう。その任にあたる人々はよく肝に銘じてほしい。
トップ写真:警視庁 出典:y-studio/GettyImages
あわせて読みたい
この記事を書いた人
樫山幸夫ジャーナリスト/元産経新聞論説委員長
昭和49年、産経新聞社入社。社会部、政治部などを経てワシントン特派員、同支局長。東京本社、大阪本社編集長、監査役などを歴任。

