本気で世界一を目指すために 熱くなりきれないワールドカップ 最終回

林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・JFAが掲げている目標「2050年までにワールドカップを単独開催し、日本代表が優勝する」。
・開催は可能だが、今のような事を続けていては、優勝できるとは思えない。
・森保監督は監督の座を辞するべき。優勝候補と称される代表を本気で育てよう、という長期戦略に基づいて選任された監督ではないからだ。
「2050年までにワールドカップを単独開催し、日本代表が優勝する」
これはJFA(日本サッカー協会。以下、協会)が掲げている目標である。
現時点での私の評価は、こうだ。
「開催は可能だが、今のような事を続けていては、優勝できるとは思えない」
まず、協会が「単独開催」とわざわざ強調しているのは、2002年大会が日韓共催という、史上初の形式で開催されたことが関係している。
もともと、時のFIFA(国際サッカー連盟)会長であったジョアン・アベランジェは、アジアで図抜けた経済力を持つ日本でワールドカップを開催し、新たなマーケットを開拓しようという構想を打ち出していた。
彼はブラジル出身の実業家で、サッカーに関して言うと、実は選手・審判・指導者いずれの経験もない。若い頃は水泳の選手で、1936年のベルリン五輪に出場した経験もある(1916年生-2016年没)。
弁護士資格を持ち、保険会社やバス会社などを経営するというマルチ人間だった。
FIFAは、1904年に旗揚げされ、当初はパリの裏通りにある古びた雑居ビルに事務所を構え、ボランティアによって運営されていた。
しかし、1980年の第一回ワールドカップ(ウルグアイ大会)が興行的に大成功した結果、スイスのチューリッヒにあった一軒家を買い取り、本部を移転。さらには専従の事務職員を雇えるまでになった。
その後も発展を続けていたのだが、アベランジェが会長に就任して以降TVマネーやコカコーラ・マネーを呼び込み、ついにはレマン湖を一望できる高台に、高級リゾートホテルと見まがうばかりの豪華な本部ビル=FIFAハウスを構えるまでになったのである。
コカコーラ・マネーというのは、たとえば世に言うFIFAランキング(日本は最新のランキングで28位)や、20歳以下のワールドユース(2007年からFIFA U-20ワールドカップと改称)はコカコーラ社をスポンサーとして立ち上げられたものだ。
こうした経緯も、サッカーそのものの歴史についても、私は『ロングパス』(新潮社)という1冊にまとめているので、できればご参照いただきたいが、要はアベランジェにとって日本でのワールドカップ開催は「新たなビジネスチャンス」に過ぎなかったのである。
ところが、この構想に真っ向から挑戦してきた者がいた。
韓国サッカー界の若きリーダー、チョン・モンジュン(郭夢準)である。
あのヒョンデ(元ヒュンダイ(現代))財閥創業者の息子で、自身も現代重工業の大株主である彼は、その資金力にものを言わせてFIFA副会長の座に就き、まずはヨーロッパ各国の理事たちに接近した。ちなみに、後年韓国の大統領選挙に出馬しようとしたが、派閥の調整がうまく行かず断念したという。
ここで少し話を戻すが。アベランジェ以前に会長の座を占めていたのは、審判資格を持つようなヨーロッパ出身の学識経験者で、アジア初のワールドカップ開催に、必ずしも前向きでなかったとされている。
もともとワールドカップは、サッカー界における二大勢力とも言えるヨーロッパと南米との交流戦、といった趣があって、この両大陸で交互に開催されるのが不文律となっていた。
しかしアベランジェのビジネス戦略が、FIFAに大いなる経済的恩恵をもたらしたことは争いがたい事実で、早い話がアジアでの開催そのものには、反対する大義名分はなかった。
もうひとつ、アベランジェの票田は同じ理由でアジア・アフリカ諸国であったが、ここが韓国側の巧みなところで、
「分断国家であるわが国でのワールドカップ開催は、世界平和に寄与する。北朝鮮との共同開催も視野に入れている」
とアピールし、アジア・アフリカの票田を切り崩しにかかったのである。
さらに言えば、いや、前にも述べたことだが、この時点で日本はワールドカップ出場経験がなかったのに対して、韓国は5回も出場していた。確たる強化戦略もなかった日本に対し、ドイツ・サッカーを徹底的にコピーすることで、アジアに覇を唱えていたのだ。
招致活動の開始では、日本が先んじていたものの、予期せぬ、しかも予測を大きく超える巻き返しに直面したのである。
かくして、総額でいくらのカネが乱れ飛んだか分からない、とまで言われる事態に発展したわけだが、最終的には日韓の共同開催という形で妥協が実現した。
読者諸賢はすでにお気づきのことと思うが、私が「開催は可能」と述べたのは、ネガティブな意味である。シリーズ第1回でも述べた、開催国の選定などカネでどうにでもなる、という現実があり、それを是認する気になどなれないのが、サッカー好きの本領であろう。
もうひとつの、日本がワールドカップで優勝できる可能性についてはどうか。
こちらの方は、あながち夢物語でもないと、私は考えている。幾度も述べてきたように、日本のプロ・サッカーリーグの歴史とは、ワールドカップなど別の世界の出来事、というところから始まっている。
その、Jリーグが発足した当初(1991年に設立。93年に開幕)の逸話だが、鹿島アントラーズがジーコを獲得し、帝国ホテルで記者会見を開いた。この時、地元の茨城県鹿嶋市では、こんな噂が広まったという。
「なんでも住友金属がジコ(事故)を起こして、記者会見を開くらしい」
これが、ほんの30年前の話なのだ。
そのジーコの母国ブラジルにしても、これまたすでに述べたように、ワールドカップで5回優勝している。さらに、過去22回の大会すべてに出場した、つまり棄権や予選敗退柄の経験がない唯一の国としても知られている。
ただ、初参加は1930年ウルグアイ大会で、初優勝は1958年スウェーデン大会。
途中、第二次世界大戦によって中断されたし、一概には言えないのだが、選手寿命を勘案して考えると、ゆうに4世代以上かかっている。
さらに言えば、この1958年スウェーデン大会で、ブラジル代表が世界を驚かせたのは、4-2-4という超攻撃的なフォーメーションと、当時まだ17歳だった黒人選手のパフォーマンスであった。
その名をペレといい、ご存じ「サッカーの神様」である。
一人の天才が歴史を変えることもあるというのは、サッカーに限ったことでもないが、それ以上に、ブラジルという国は、漫画の台詞ではなく本心から「ボールは友達」と考える子供が大勢いて、かつ成熟したサッカー文化が育っていることを、見ておかねばなるまい。

▲写真 ダラス トルネードズとの試合に出場する、ペレ選手(1975年6月16日) 出典:Bettmann/GettyImages
最後にもう一度だけ、今次カタール大会の日本代表に話を戻すが、開幕前、森保一監督への評価は散々であった。
ところが緒戦ドイツを相手に歴史的な勝利を収めるや、SNSには謝罪コメントが殺到。
「無能な振りをして国民をあざむいた」
などというコメントまで見受けられた。
失礼にも程があるだろう……という話ではなくて、第2戦コスタリカに敗れると、またまた罵詈雑言が殺到した上に、一部のサッカー・サイトでは「後任人事」を語ろうという動きまで見受けられる。
実を言えば私も、森保監督は大会の結果にかかわらず監督の座を辞するべきだと考えている。
この原稿が掲載される前になるか後になるかは分からないが、日本時間の12月2日未明(03:40〜06:10)、スペインを相手の1次リーグ最終戦で引き分け以上なら、決勝トーナメント進出の可能性がある。その場合、トーナメント1回戦の相手はクロアチアかモロッコになりそうだ。
当然ながら、楽勝が見込める相手などワールドカップには出てこないが、
「悲願のベスト8進出」
もあり得ないことではない。
ではなぜ、森保監督は結果に関わりなく交代すべき、と考えるのか。
理由は割合簡単で、ワールドカップで優勝候補と称される代表を本気で育てよう、という長期戦略に基づいて選任された監督ではないからである。
前回紹介した本田△(※ホンダさんかっけー、と読む)など、将来の代表監督の座に意欲を隠そうともしないが、その判断を下すのはまだ早いにしても、長期的な代表強化プログラムと監督・コーチの人事を連想させることは絶対に必要である。
「ハートは熱く、頭脳はクールに」
これはアスリートの心構えを説いた金言だが、協会やサポーターにもまったく同じ事が求められると、私は信じて疑わない。
過去の連載はこちらから(その1、その2、その3、その4、その5、その6)
トップ写真:FIFA ワールドカップ カタール 2022 グループEの日本とコスタリカの試合前のインタビューに答える本田圭佑氏(2022年11月27日 カタール・ドーハ) 出典:Photo by Robert Cianflone/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。
