オウンゴール続ける日本政府の「歴史戦」
島田洋一(福井県立大学教授)
「島田洋一の国際政治力」
【まとめ】
・文在寅大統領、慰安婦問題で改めて日本の対応を非難。
・旧日本軍の慰安所利用は国際組織犯罪たる人身売買に該当しない。
・「明治産業革命遺産」が世界遺産に登録された時も外務省はオウンゴールをおかした。
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2018年3月1日、韓国の文在寅大統領が「3・1独立運動」式典で慰安婦問題に改めて言及し、「加害者である日本政府が『終わった』と口にしてはならない」「戦時の反人倫的な人権犯罪行為は終わったという言葉で覆い隠せない」などと日本の対応を非難した。
▲写真 2018年3月1日 独立運動の99周年記念式典に出席した文在寅大統領夫妻(中央) 出典:Republic of Korea
菅義偉官房長官が同日の記者会見で、「日韓合意に反するものであり、全く受け入れられず極めて遺憾だ」と不快感を示したのは当然である。また菅氏は、日韓合意は「米国をはじめ海外においても高く評価された」とも強調している。しかしこの点で、楽観は禁物だ。
▲写真 菅義偉官房長官 出典:首相官邸HP
日韓合意には、韓国政府が以後「性奴隷」という言葉を使わない旨も含まれている。しかしうがった見方をすれば、もう十分「性奴隷」概念が定着したとの自信が韓国側にあえてこの約束に踏み込ませたとも言える。
例えば、文在寅演説を伝えたワシントン・ポスト(電子版)3月1日付の記事は、慰安婦の説明として「日本兵に性的サービスを強制された女性」とした上、「多くの専門家が、性奴隷状態(sexual slavery)に置かれていたという」と記している。日本政府は、国際的に影響力の大きい同紙に訂正を求めたのだろうか。韓国政府にいくら抗議してものれんに腕押しである。メディアに対する働きかけこそが本筋と意識し、努力を倍加せねばならない。
「また韓国がゴールポストを動かした」との言葉が外務省幹部からも聞かれるようだが、外務省主導の謝罪外交でオウンゴールを重ねてきた歴史をどこまで反省しているのか疑問がある。
安倍政権下でも危うい動きがあった。一例を挙げておこう。
2015年3月26日、米紙ワシントン・ポストに安倍首相のインタビューが載った。その中に、慰安婦について、「人身売買の犠牲となって筆舌に尽くしがたい思いをした方々のことを思うと、今も胸が痛む」とした首相の発言が含まれている。「人身売買」はhuman traffickingと英訳されている。この種のインタビュー記事は、掲載前に、官邸と外務省の担当者がゲラをチェックするはずで、この場合も例外ではないだろう。「強制」に当たる言葉が排されたのは評価できるが、なお用語の選択に疑問がある。
韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相は、「日本が自ら国際的かつ普遍的な基準に基づき、真実をありのまま認める」、この言葉で日本批判を繰り返している。human traffickingには、国連による定義、すなわち「国際的かつ普遍的な基準」がある。
▲写真 康京和外相 出典 クリエイティブコモンズ
2000年11月15日、国連総会で採択された「国際組織犯罪防止条約を補足する議定書」は、組織犯罪たる「人身取引」(human trafficking の外務省訳)を「搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫もしくはその行使、誘拐、詐欺、(中略)の手段を用いて人を獲得し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、または収受することをいう」と定義している。
さらに、対象が「児童」(18歳未満)の場合には、「ここに規定するいずれの手段が用いられない場合であっても、人身取引とみなされる」とある。
逆に言えば、強制や誘拐、詐欺などを伴わない18歳以上の婦女子による売春は、国連の定義でいう「人身取引」には当たらない(特に欧州には売春を合法化している国があり、売春自体を「人身取引」とする定義は採用し得なかった)。すなわち、旧日本軍の慰安所利用は、現在の「国際的かつ普遍的な基準」に照らしても国際組織犯罪たるhuman traffickingには該当しないのである。
もちろん慰安婦の中に、犯罪的な人身売買の犠牲者が含まれていたことは間違いない。悪徳業者の排除を日本軍が指示していることからもそれは窺える。しかし、慰安婦全体を人身売買の犠牲者と規定するならば、旧日本軍に対する重大な誤解を招くことになる。人身売買(ないし取引)という言葉は、国際場裡で安易に用いてはならない。
さらに明確なオウンゴールを近年外務省はおかしている。2015年に「明治産業革命遺産」がユネスコの世界遺産に登録された際、韓国のクレームに屈して、外務省は、軍艦島などで朝鮮人が「労働を強制された(forced to work)」という事実に反する記述を書き加えた。この件で調整に当たった加藤康子内閣官房参与は、韓国が反対しても票は足りる、遺産の名誉を傷つけるような譲歩はすべきでないと主張したが、外務省に押し切られたという。
▲写真 軍艦島(端島)の全景 Photo by Hisagi
「労働を強制された」と「強制労働(forced labor)」は違う、後者(国連の定義で「人道への罪」に当たる)は認めていないというのが外務省の理屈だが、国際社会一般には通用しない。
現に冒頭の文在寅演説を伝えたワシントン・ポスト(電子版)3月1日付の記事を見ると、慰安婦の説明として「性的サービスを強制された(forced to)」と「性奴隷(sex slave)」を同趣旨の言葉として併用している。forced toを認めた時点で負けなのである。
トップ画像:「3・1独立運動」式典に出席した文在寅大統領(2018年3月1日)出典 Republic of Korea
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この記事を書いた人
島田洋一福井県立大学教授
福井県立大学教授、国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)評議員・企画委員、拉致被害者を救う会全国協議会副会長。1957年大阪府生まれ。京都大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。著書に『アメリカ・北朝鮮抗争史』など多数。月刊正論に「アメリカの深層」、月刊WILLに「天下の大道」連載中。産経新聞「正論」執筆メンバー。