実力の世界とジェンダーについて(下) 娯楽と不謹慎の線引きとは 最終回
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・国際水泳連盟は、トランスジェンダーの選手が女子の競技に出場することを禁止。
・一人のトランスジェンダーの選手に配慮し、圧倒的多数の「女性として生まれた選手たち」の声に耳を貸さないのは、民主的なやり方ではない。
・民主主義も人権も、長い時間と大いなる労力を費やして、ようやく普遍的なものとなってきた。より平等な社会を実現する為の試行錯誤は今も続いている。
「この世には男と女しかいない」
とは、昔から言われていたことだが、最近一部のメディアでは、この言葉が〈要注意〉の扱いになっている、と聞いた。禁句とまでは言わないが、LGBTの人権が侵害されているとして、抗議を受ける可能性がある、といった理由らしい。
本誌の読者には、今さらながらの説明かも知れないが、Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシュアル、Tがトランスジェンダーで、最近はこれにクエスチョニングすなわち自身の性別を認識できない人を含めてLGBTQとも言う。要は性的マイノリティの総称だ。
トランスジェンダーについては、一般に性転換手術を受けた人のことだと考えられているようだが、正しい定義は「生まれついた性別と当人の認識が一致していない人」のことで、つまり肉体的には男性か女性だが、当人は異なる性別に属すると認識している人のことである。
このような人たちが、しばしば深刻な差別問題に直面していることは事実で、私はあらゆる差別に反対する立場である。しかしながら同時に、差別と区別は違うだろう、という考えを変えるつもりもない。
冒頭の言葉についてだが、性的マイノリティの人たちにせよ、法的にも肉体的にもどちらかの性別に属していることは間違いないわけだし、また、この言葉を「性的マイノリティはこの世のものでない」という意味になるなどと解釈するのは、いかにも無理がある。
前回、将棋界においては棋士と女流棋士は異なる概念だが、囲碁はそうではない、という話をさせていただいたのも、論点を具体的に提示したかったからだ。制度上の差別問題と実力差の問題はまったく違う。
将棋や囲碁はゲームだが、知的スポーツとして広く認識されている。長考など体力勝負の部分もあるので男性が有利、との見方には説得力がないということも、前回述べた。
一方、スポーツ界では大半の種目が男女別になっているが、これについて違和感を持つ人は、あまりいないのではないか。
単純に走るだけの(と言っては失礼かも知れないが)マラソンやトラック競技にせよ、記録を見れば、女性が男性と互角の勝負などできない事は明白だし、球技にしても同様。
数年前に、なにかのチャリティーで、ラモス瑠偉、前園真聖といった、すでに現役を退いた元日本代表が「なでしこジャパン」との試合に出たことがあるが、男子の元代表となると、なでしこのディフェンスなど簡単に切り裂いてしまう。イベントだから本気でぶちかましたりはしないが、それでもこうなのだ。
格闘スポーツでも、これまた以前バラエティー番組で、タレントの武井壮が、あの吉田沙保里選手にレスリング勝負を挑んだことがある。結果は、吉田選手の勝ち。
武井壮の身体能力は折り紙付で、本人も勝てると思っていたとコメントしていたが、武道経験者として言わせていただくと、格闘だ肉弾戦だと言っても身体能力が全てではない。
とは言え、霊長類最強とまで称された吉田選手にせよ、メダリスト級の男子と戦ったら、まず勝ち目は薄いだろう。
ならばトランスジェンダーの場合は……というのが今回の最も大きな論点である。
6月19日、国際水泳連盟は、トランスジェンダーの選手が女子の競技に出場することを禁止する、との決定を下した。
事の起こりは、2020年までウィリアム・トーマスという男性として競技に参加していた選手が、性転換手術(最近は〈適合手術〉と呼ぶらしい。本連載でも今後はこう呼ぼう)を受けて、戸籍名もリア・トーマスと変えた上で、女子の競技に出場し、東京五輪のメダリストまでも破って優勝したことだ。
これに「生まれつきの」女子選手の間から不満の声が続出し、連盟も対応に苦慮していたのだが、最終的に上記のような決定となったもの。舞台となったのはハンガリーの首都ブタペストで開かれた総会だが、71パーセントの賛成が得られたという。
私個人も、この決定は妥当なものだと思う。
彼女は、
「答えはいつもシンプル。私は男じゃない。トランスジェンダーも他のアスリートと同様に、もっと尊重されるべき」
とコメントしている。その気持ちは分かるが、国際水泳連盟の、
「競技に参加したいという気持ちは尊重するが、優遇があってはならない」
という判断の方が、より説得力があるのではないか。水泳連盟はまた、大きな大会には性別に関わりなく参加できる「フリー部門」を設けるとも発表した。救済処置もちゃんと取られているのだ。
つまりこの決定で、トランスジェンダーの選手の人権が侵害されたとは言えない、と私は考える。民主主義に照らして、人権はなによりも尊重されなければならないのは当然だが、と言って、万人が完全に満足できるシステムなど作れるはずがない。
だからこそ民主主義が目指すものとは「最大多数の最大幸福」である、と昔から言われるのではなかったか。一人のトランスジェンダーの選手に配慮して、圧倒的多数であるところの「女性として生まれた選手たち」の声に耳を貸さないというのでは、いかなる意味においても民主的なやり方ではない。
もうひとつ、生まれつきの性とトランスジェンダーとの間には、どこかで線引きをしなければなるまい。
と言うのは、五輪やワールドカップに出場したい、との理由で国籍を替える選手が後を絶たないからで、将来的に、金メダルのために性別を変えてしまうような選手が現れる可能性も否定できないと思うからだ。
国籍と性別は違うだろう、との声が聞こえてきそうだが、本当にそう言い切れるだろうか。前にも述べたことがあるが、五輪でメダルを獲得すれば、億単位の収益も期待できるのが現在のスポーツ界なのである。
ここで、話を再び文化・芸能の分野に戻そう。
古典芸能では、歌舞伎の舞台に女性が立てず、一方より近代的なエンターテインメントでは、宝塚歌劇団(以下、宝塚)は男子禁制の世界である。
これについては男女を問わず、抗議の対象になったという話は聞かない。これはジェンダーの問題とは少し違うかも知れないが、歌舞伎の舞台に女性が立ち、宝塚の舞台に男性が……ということになると、歌舞伎の女形。宝塚の男役の存在意義があやしくなるからではないだろうか。
もっとわかりやすく言えば、相撲の土俵に女性が上がってはいけない、というのは明らかな差別だが、女子相撲にプロや実業団がないのは、今のところ競技人口が圧倒的に少ないから、という問題に過ぎない。前回、将棋の女流について述べたのも、話がここにつながってくるからで、自分も土俵に上がってみたい、という女性が増えれば、相撲界の考え方も変わって行くだろう。
民主主義も人権も、天から与えられたものではなく、長い時間と大いなる労力を費やして、ようやく普遍的なものとなってきたものだ。そして、より平等な社会を実現する為の試行錯誤は、今も続いているのである。
過去の連載はこちらから(その1、その2、その3、その4、その5、その6)
トップ写真:女子水泳・飛び込み選手権大会の500ヤード自由形で優勝したトランスジェンダーの選手リア・トーマス(2022年3月 アメリカ・アトランタ)
出典:Photo by Justin Casterline/Getty Images
あわせて読みたい
この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。