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.社会  投稿日:2023/4/28

ストが多発する国、見られない国(下)ポスト・コロナの「働き方」について 最終回


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・ストライキが知られるようになったのは、明治に近代工業が興ってから。

・戦後、憲法でストの権利が保証され、6、70年代にストが頻発。

・労使協調路線や正規・非正規の分断といった団結意識の欠如で、ストは減少傾向。

 紀元前1000年頃、エジプト第20王朝(=ラムセス王朝)の治世下で、神殿の拡張工事に従事していた職人・労働者が、給与の未払いに抗議して、集団で職場を放棄し工事中の神殿の前に座り込んだ。

 これこそが記録に残された。世界初のストライキである。

 古代エジプトにおける労働力とは、もっぱら奴隷であったというイメージをお持ちの読者もおられるかも知れないが、実際には戦争で得た捕虜を奴隷とした例などはあったが、数は少なく、労働力の中核と見なされてなどいなかった。

 一方で、給与というのは穀物や魚などの現物支給で、たまにビールや菓子も配られた。

その未払いの原因も、不作などではなく、役人の腐敗であったとされている。手段と言い政治を糾弾する目的があったことと言い、まさしく後世のストライキの原型と呼ぶにふさわしい。

 日本においては、古来、農民の反乱=一揆は数え切れないほど起きたが、ストライキという言葉が知られるようになったのは、明治の世となって近代工業が興ってからである。

 1886(明治19)年6月、山梨県甲府市にあった雨宮製糸場で、女工たちが労働時間などの待遇改善を要求して一斉に就業を拒否し、工場近くの寺院に立てこもった。彼女たちの労働環境の過酷さは、1979年に公開された『ああ野麦峠』という映画などに、よく描かれている。

 この騒動を報じた6月16日付『山梨日日新聞』の記事中、それまで耳慣れなかった「同盟罷業」という言葉が使われ、しかも「すとらいき」とルビがふられていた。これは今では、複数の大学で教材の中に取り上げられていると聞く。

 1897(明治30)年には、日本におけるマルクス主義の草分けと称される片山潜らが「労働組合期成会」を立ち上げ、ここに日本における労働組合運動の歴史が始まる。

 しかし1900(明治33)年に治安警察法が施行され、ストライキは違法行為となり、2年後には労働組合期成会も解散に追い込まれた。

 1912年、奇しくも元号が明治から大正へと変わった年だが、今度は労働問題の平和的解決を掲げた「友愛会」が旗揚げされるが、ほどなくこの組織も労働組合運動に傾斜し、やがて「日本労働総同盟」と改名するに至る。

 1917年、ロシア社会主義革命の結果、世界で初めての共産党政権が誕生すると、各国の労働運動や社会運動も大きな影響を受け、日本においても、労働組合運動の左傾化と政府による弾圧が、ともに先鋭化するという事態を招いた。

 その後の経緯まで深く掘り下げる紙数はないが、結論から言うと、昭和初期の軍国主義体制下、労働運動は反戦思想、ひいては共産主義思想と同一視されて、多くの活動家が逮捕され、終戦まで刑務所に入れられた一方、世に言う翼賛的な労働運動、すなわち戦時経済に協力的な組合だけが生き残ったのである。

 そして日本はアジア太平洋戦争に敗れ、日本国憲法が制定されることとなった。

 憲法第28条において、労働者の団結権が保障され、労働組合法においてはストライキの権利(以下スト権)も保証された。

 具体的には、ストライキによって企業が損害を被ったとしても、労働組合が賠償責任を問われることはないし、ストライキ中の事業所に、公共職業安定所(今ではハローワークとして知られる)や人材派遣会社が、臨時雇いの労働者を送り込むことは禁止されている。

 こうして日本の労働組合運動は息を吹き返したのだが、その結果、左翼政党・団体の影響力が強まり、これを危惧したGHQ(占領軍総司令部)は、1948年に政令201号を公布。公務員のストライキは「公共の利益に反する」として、全面的に禁止した。

 1950年、サンフランシスコ講和条約の締結によって、日本は独立を回復したため、GHQの政令は無効になったが、同じ年に施行された国家公務員法と地方公務員法の中にストライキを禁止する条文が盛り込まれており、今日まで改正されていない。

 1949年には、それまで国営事業であった国鉄、専売公社、電電公社が「公共事業体」として再スタートしたが、ここでもやはりストライキが禁じられていた。 

 しかしながら1960年代に入ると、毎年「春期賃上げ闘争(以下、春闘)」に際して、国鉄を中心にストが頻発し、年中行事の観を呈するまでになる。

 前述のように、国鉄労働者のストは違法ということになるが、労組もさるもの、日本以外ではあまり聞かない「順法闘争」を編み出した。

 列車の運行には、安全確認など細かな作業がつきもので、その手順も法令などで定められているのだが、現実問題としては、これを厳格に守っていたらダイヤ通りの運行は難しくなる。悪く言えば「適当にやっていた」わけだが、これで事故率が世界一低かったのだから、あっぱれ日本の労働者、聞け万国の労働者……という話ではなくて、こうした安全確認などを法令通りの手順でこなすことが、ダイヤの乱れを招き、国鉄上層部に揺さぶりをかけたのである。

 当時、国鉄労働組合(国労)、国鉄動力車労働組合(動労)の組織率は、全従業員の6割を超えており、管理職は組合員になれないので、現場での勢力は非常に大きかった。しかも、動労には新左翼の革マル派(革命的共産主義者同盟全国委員会・革命的マルクス主義派)が浸透しており、立花隆氏の『中核VS.革マル』(講談社)などによれば、革マル派の副議長と称される松崎明氏が、動労東京地区本部の委員長であり、青年部では、29地区のうち9地区で執行部を独占し、なおかつ本部を掌握していた。

 1975年秋には、前述のように公共事業体の労働者にスト権が認められていないことを不服として、世に言う「スト権スト」も実際されたが、闘争は頓挫し、以降わが国におけるストライキは減少の一途をたどることとなる。

 具体的には、ピークと言われた1974年は、半日以上のストライキ件数が全国で5197件、参加人数362万0283人であったのに対し、2010年には38件、参加人数2480人と、まさしく見る影もない。

 動労など、1986年の国鉄民営化に際して、民営化反対を唱える総評・国労を尻目に、

「組合員の雇用を守ることが最優先」

 であるとして、民営化賛成に転じた。その結果、民営化後のJR総連においても、松崎氏と革マル派は隠然たる勢力を保持し得たのである。松崎氏は2010年に他界したが、彼と動労→JR総連の顛末は『暴君』(牧久・著 小学館)という本に詳しい。

 結論のみここで述べれば、2018年に松崎氏率いるJR東労組が30年ぶりにスト権の行使を示唆したところ、組合員役4万6900人中3万5000人以上が脱退する、という事態を招いてしまった。背景にあるのは、

「労使協調路線を堅持するということだったのに、話が違うではないか」

 という組合員の思いで、わが国でストライキのニュースを聞かなくなったのは、この労使協調路線に最大の原因が求められると、衆目が一致している。

 日本独自の終身雇用制のもと「会社は家族」という意識が浸透し、経営陣と労働者が激しく対立することを忌避する風潮が強かった上に、労働組合の幹部になるような人は、

「リーダーシップがある」「できる人だ」

 という評価を得て、管理職に登用、平たく言えば出世が早まるという傾向まであった。

 バブル崩壊後の不況の中、働く者の実質賃金は下がり続けているというのに、ストのニュースを聞かなくなって久しいのは、こうした労使協調路線とともに、労組の側にも

「組合員=正社員の雇用を守るのが第一」

 という考えが抜きがたく存在するからである。言い換えれば、日本の労働者は今や、正規雇用と非正規雇用とに分断され、団結・連帯する意識さえも失ってしまっているのだ。

 ストライキが頻発する事態も、もちろん困りものだが、働く者の権利の為に闘うことを忘れた日本の労働組合運動もまた、いかがなものかと思うのは、私一人だけだろうか。

(了。その1その2その3その4その5その6

トップ写真:労働者らの線路座り込みによる抗議 1960年6月7日 東京・三鷹

出典:Photo by Keystone/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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