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.政治  投稿日:2024/1/31

結局は公明党次第なのか(下)続【2024年を占う!】最終回


林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

強い野党の存在が、健全な議会制民主主義を担保する。

・有権者の意識が本格的に変わらない限り、本物の二大政党制は実現しない。

・自民党総裁選に向け、党分裂含みの大政局になった場合、またしても公明党がキャスティングボートを握る可能性が出てくる。

 

岸田内閣=自公政権の先行きについて考えているが、政治とカネの問題で政権与党が大混乱に陥ったのは、無論これが初めてのことではない。

ただ、1988年に発覚したリクルート事件に関しては、若い読者諸賢は、まだ幼かったり生まれていなかったということも考えられる。

簡単に復習すると、1984年から85年にかけて、リクルートの関連会社で不動産開発などを手がけていた、リクルート・コスモス社の未公開株(上場前であった)が、当時の江副浩正会長から政治家や官僚などに譲渡されていた。

リクルートの政財界における影響力を強めることが目的であったとされているが、1988年6月18日付の朝日新聞が、川崎駅西口再開発をめぐって、市の助役がくだんの未公開株(上場後の売却益は1億円に達した)を受領していたことをスクープし、その後各紙の後追い報道によって、政財界を揺るがす大スキャンダルに発展したのである。当時の竹下首相はじめ、中曽根元首相ら大物議員が軒並み譲渡を受けたことを認めていた。

ただ、野党の重鎮も含め、あまりに多くの政治家が関わっており、なおかつ贈収賄罪の成立要件である職務権限との関係性が立証できないとして、今次のパーティー券問題と同様、前出の首相経験者はじめ大物政治家は立件されなかった。

とは言え無事で済むはずはなく、1989年4月、

「国民に政治不信を招いた」

として竹下内閣は総辞職。さらには当時「ポスト竹下」の有力候補との下馬評が高かった、宮澤喜一安倍晋太郎、渡辺美智雄と言った面々は、事実上の謹慎を課せられ(リクルート・パージと呼ばれた)、自民党の将来は、小沢一郎、小渕恵三、羽田孜、橋本龍太郎といった、当時の中堅メンバーに委ねられることとなったのである。

前出の安倍、宮澤、そして竹下の三氏が、1980年代末期に「ポスト中曽根」の座を伺うニューリーダーと称されたのをもじって、ネオ・ニューリーダーなどと呼ばれた。とは言え、ただちに世代交が進んだわけでもなく、宮澤氏はよく知られる通り、少し後に復権して1991年には首相に就任している。

一方で、政治とカネの問題を追及する声は高まる一方で、これに対応すべく、公職選挙法が改正された。具体的には、政治家が立件され有罪判決が下された場合、たとえ執行猶予がついても公職を離れなければならない、とされた。

また、政治家の資産公開については、本人だけでなく一親等(妻子や両親)まで対象を拡大することが定められている。これは、前述のように政官界にスキャンダルが波及する中、

「(株の受領も売却も)すべて妻がやったことで、自分は知らなかった」

と言い逃れようとした官僚がいたことに対応したものかと思われるが、詳細まではよく分からない。

いずれにせよ、1989年7月の参議委員選挙において、自民党は過半数を割り込むという結党以来の大敗北を喫してしまう。 

リクルート事件、消費税導入、オレンジなど農産物の自由化が影響したとされ、「逆風3点セット」などと呼ばれたようだが、加えて竹下首相の後を継いだ宇野首相が、芸妓をしていた女性から、毎月30万円の「お手当」で関係を持つよう迫られた、などと暴露されては……

かくして1990年代前半は「政治改革」が国民的スローガンとなった観を呈し、ついに自民党が下野するに至る。

詳細な経緯については、拙著『日本人の選択』(葛岡智恭と共著・平凡社新書。電子版アドレナライズ)をご参照いただきたいが、要は、自民党の分裂から事が始まった。

前述のように、1991年に宮澤内閣が誕生するのだが、これをよしとしなかったのが竹下派の重鎮たち=世に言う「竹下派七奉行」だが、その竹下派も、竹下系と金丸(信)系とで内部抗争が続いていた。

竹下系には梶山静六氏、金丸系には小沢一郎氏と、いずれも「剛腕」「喧嘩上手」と称された旗振り役がいたため、この内部構想自体が「一六戦争」と呼ばれるほど熾烈なものになったが、最終的に小沢氏は羽田孜氏らと共に自民党を離脱し、新生党を旗揚げした。

一方、地方からも自民党の金権ぶりに対して、反旗を翻す政治家が現れた。

自民党の衆議院議員、参議院議員を経て、1983年からは熊本県知事の座にあった細川護熙氏で、彼を中心に、自民党を見限った政治家たちによって、日本新党が旗揚げされる。

結成当初は現職の国会議員がおらず、細川氏の「個人商店」などと揶揄されたが、ほどなく後に民主党の重鎮となる野田佳彦氏、前原誠司氏、さらには小池百合子・現東京都知事や河村たかし・現名古屋市長などが名を連ねた。

この新生党と日本新党が「非自民・非共産」の政権構想を打ち出して連携し、これに公明党が加わったことから、1993年7月の総選挙において、ついに自民党を追い落とし、細川政権が誕生。世に言う55年体制に終止符が打たれたのである。

この動きは、当時「新党ブーム」などと言われ、実際に目まぐるしいまでの離合集散が続いた。たとえば小池百合子議員(当時)について、日本新党→新進党→自由党→保守党→保守クラブ→自民党と所属が変遷したことから「政界渡り鳥」などと呼ぶ向きがあったが、実は彼女と似たり寄ったりの経歴を持つ議員は結構多い。1990年代の政治的混乱を象徴するのが、彼女の経歴であると言える。ちなみに彼女は、都知事選に立候補するに際して、またもや自民党を離党し、都民ファーストの会を旗揚げしている。

……きわめて大雑把な説明しか出来なかったことは申し訳なく思うが、2024年初頭の政局について、どうして

「リクルート事件後の混乱を彷彿させる」

と言われているのかについては、想像が及んだ向きもおられるのではないだろうか。

28日には、高市早苗・経済安保担当相が、大阪万博を延期すべきであると首相に進言したことが報じられた。

大阪万博は2025年4月に開催予定だが、工事が遅れており、建設資材の高騰や人手不足が指摘されている。

ひとまず延期して、被災地の復興に資材や人手を集中すべきだとの大義名分は立派だが、実際の所、安倍派は復権をあきらめておらず、総裁選をにらんで「岸田降ろし」の矛を収めるつもりはない、という意思表示だったのではないか、と見る向きが多い。

前回お伝えした通り、彼女と、祖父(福田赳夫)と父(福田康夫)が総理総裁経験者である福田達夫氏の周囲で、新派閥旗揚げの動きあり、と漏れ伝わってきている。

動きが気になるのは、安倍派だけではない。

安倍一強と言われた政権運営の中で、反主流と見なされ冷や飯を食わされてきた、石破茂、河野太郎、そして小泉進次郎の三氏が、指をくわえて9月の総裁選を傍観するなどということがあり得るだろうか。石破氏は世論調査で「次の総理総裁にふさわしい人1位」になったこともあり、河野・小泉両氏の知名度は言うに及ばず、ダークホースになり得る要件は備えているように思えるが。

さらに言えば、もしも9月の総裁戦に向かう過程で、自民党の混乱が拡大し、分裂含みの大政局になった場合、またしても公明党がキャスティングボートを握る可能性が出てくる。それが、今次のタイトルの意味だ。

昨年暮れにいわゆるパーティー券問題が明るみに出た際、公明党の山口那津男代表は、

「同じ穴のムジナと見られたくない」

などと発言し、自民党の金権体質への嫌悪感を隠そうともしなかった。この時すでに、すわ連立離脱かと騒がれたことは記憶に新しい。

ご案内の通り、公明党の支持母体は創価学会だが、昨年11月に池田大作会長が世を去った後、婦人部を中心に、

「クリーンで公正な政治を目指した原点に回帰すべき」

であるとの声が強まる一方であると『週刊文春』はじめ複数のメディアも報じている。

……このように述べてくると、私がまるで自民党分裂から政権交代へ、という大政局を期待しているかのように思われるかも知れない。

その答えは、イエスでもありノーでもある。

たしかに私は一貫して、

「政権担当能力を持つ強い野党が常に存在することが、健全な議会制民主主義を担保する」

と主張し続けてきた。しかし同時に、民主党政権の総括として、

「有権者の意識が〈試しに一度、民主党にやらせてみよう〉といったレベルに留まる限り、本物の二大政党制など絵に描いた餅でしかない」

とも言い続けてきた。

冒頭で述べたように「政界は一寸先が闇」ではあるが、一筋の光は見えると考えたい。

*本文中、故人など一部は敬称略

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トップ写真:野党キャンペーン 出典:noboru bashimoto/Getty Images

 

【訂正】2024年1月31日

本記事(初掲載日2024年1月31日)の本文中に間違いがありました。お詫びして訂正いたします。※本文では既に訂正済み

誤:ただ、1988年に発覚したロッキード事件に関しては、若い読者諸賢は、まだ幼かったり生まれていなかったということも考えられる。

正:ただ、1988年に発覚したリクルート事件に関しては、若い読者諸賢は、まだ幼かったり生まれていなかったということも考えられる。




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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