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.国際  投稿日:2025/5/21

ベトナム戦争からの半世紀 その13 中部高原での異変の始まり


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・1975年3月10日、中部高原ダルラク省バンメトート市に北ベトナム軍正規軍の砲撃が開始。

・当日午後にはバンメトート市が陥落危機に直面したと発表。

・ベトナム戦争の歴史的な転換点、ベトナム共和国の運命の分かれ目に。

 

1975年3月10日の朝、私はたまたま、いつもより早くサイゴン市内の中心部にある自分のオフィスに出勤した。毎日新聞サイゴン支局である。この時期に私は支局長となっていた。毎日新聞サイゴン支局というのは長年、支局長とその下に常駐特派員がいて、駐在は記者2人という体制だった。ところがこの時期に常駐は1人とし、それまでの支局長は帰国して、私が順送りの形で支局長となったのだ。

この人事の背後にあった東京の判断は「ベトナム戦争はパリ和平協定で下降に向かう」という読みだった。だがこの判断はみごとに外れる結果となった。

この朝、珍しく十分に睡眠をとったと感じた私は市内のカフェで朝食をとった。サイゴンでの朝食というと、やはりクロワッサンにハム、コーヒーというようなフランス風が多かった。日本では味噌汁にご飯、納豆などという純日本式の朝食で育った私もこのベトナム風の朝食には慣れてきていたのだ。

さてそんな日の朝、国営ベトナム通信のグエン・ザ・トイ記者が支局に飛びこんできて告げた。

「大変です! 共産軍の大部隊がバンメトート市内に突入しました。このままだと陥落も時間の問題です」

ベテラン記者のトイさんはもう数年も毎日新聞サイゴン支局への情報提供者だった。サイゴン北北東300キロほどのバンメトートという中級都市は中部高原ダルラク省の省都だった。人口15万、中部高原では交通や経済の中枢だった。この年の1月に北ベトナム軍が制圧したフォクロン省の省都フォクビンよりも重要度の高い拠点だった。3月10日未明、この都市に北ベトナム軍正規軍の激烈な砲撃が開始された。市内には南ベトナム政府軍の第23師団の司令部がある。だがこの市内に向けて、どこにひそんでいたかといぶかるほどの規模の北ベトナム軍部隊がわき出るように出撃し、多数の戦車を先頭に攻めこんできたのだという。守備の南ベトナム軍は苦戦を強いられているというトイ記者の情報だった。

「実にみごとな奇襲でした。政府軍は北ベトナム軍が中部高原の北部の要衝プレイクを攻撃目標にしていると判断し、バンメトート防衛の第23師団の主力もプレイク方面に動かしていました。だが北軍は巧みな陽動作戦をとったのです」

確かにそこ数日来、中部高原からは北軍がプレイクに大規模攻撃をかけるような情報がサイゴンに流れていた。3月4日には中部海岸のクイニョンから高原のプレイクに通じる国道19号線沿いの南軍の前線基地3ヵ所が北軍に占拠されたという。この国道の交通がほとんど遮断され、プレイク省への補給が難かしくなったともされた。プレイク省内の南軍の小基地も散発的な攻撃を受けたともいう。トイ記者の情報によると、プレイク市内から周囲の山岳地域を望見すると、山林地帯の樹木には北軍兵士用のハンモックが多数、釣られているのがみえて、大規模な部隊の布陣を思わせたという。だがそれらの多数のハンモックはみな空のままだった。

こうした動きはみな偽装だった。北ベトナム軍はプレイクを攻撃するとみせかけ、その南約180キロのバンメトートを急襲したのだった。南軍はこの偽装作戦にうまく引っかかってしまったのだ。サイゴンの南ベトナム政府軍司令部も3月10日午後にはバンメトート市が陥落の危機に直面したと発表した。北軍の砲撃と戦車隊による攻撃で市内の一部は占拠され、第23師団司令部、ダルラク省長公舎が攻撃を浴び、市周辺の飛行場2ヵ所や弾薬庫はすでに制圧された、と認めたのだった。

記者団からは当然ながら「では省都のバンメトート市は陥落したのか」という質問が出た。だがこの問いへの司令部報道官の答えは「ノー」だった。

市内の南半分ではまだ激戦が続いているというのだ。司令部はその証拠にそのバンメトート市南部での戦闘を目撃するための記者団を現地の戦況視察に連れていく取材旅行を準備するとまで発表した。3月13日の未明にサイゴン近郊の空軍基地に集まれば、軍用機で記者たちを現地へ案内するという発表だった。私も危険を承知のうえでその取材団に応募した。そして眠い目をこすりながらその集合地点へ出かけていった。ところが司令部首席報道官のレ・チュン・ヒエン中佐が「現地での戦況が急変し、前線視察は困難になりました」と語り、申し訳ないと謝った。

明らかにバンメトート市は北ベトナム軍に完全に制圧されたという南軍側の自認だった。この省都の完全制圧は私たち日本人記者団が南ベトナムのチュー大統領に長時間のインタビューをした、そのわずか1週間後だった。

バンメトートは森林に囲まれた瀟洒な高原の都市だった。市周辺は古くからフランス人がゴム園やコーヒー園を開発していた。市内にはベトナムの基準では高層ともいえる高い建物が並んでいた。住民は一般ベトナム人に加え、少数民族の山岳民族も多く、原色の風俗で高原の街並みに情緒を添えていた。キリスト教の布教の中心地でもあり、外国人の神父の姿が目立った。

この美しい省都はそれまでふしぎなほど戦火の被害を受けることが少なかった。1968年のテト攻勢の際も、革命側の奇襲部隊が市内に突入し、放送局を占拠して、小規模の戦闘が2日ほど続いただけだった。それ以外には大きな戦闘はなかった。だから静かな避暑地ともみなされ、サイゴン側の要人たちが所有する別荘も多かった。

そんな避暑地が北ベトナム軍の大部隊に席巻されたことへのサイゴン側の狼狽はことさら大きかったわけだ。とくにその奇襲の周到ぶりは北軍部隊が事前に市周囲の山林の多数の木の根元にひそかにノコギリを入れて大部分を切り、戦車がいざ前進する際には容易にそれらの木を倒せるようにしておいた「準備」にも象徴されていたという。

このバンメトート市の陥落がベトナム戦争の歴史的な転換点、そしてベトナム共和国の運命の分かれ目となっていった。

(その14につづく.その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12

トップ写真:南ベトナムの難民車列 1975年3月23日(南ベトナム、フービン)出典:Bettmann by Getty Images




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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