ベトナム戦争からの半世紀 その14 北ベトナム軍の多層な戦略

古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」
【まとめ】
・北ベトナムは、1975年~76年にかけての南ベトナム制圧の大軍事作戦を策定、第一段階としてバンメトート市への攻撃を計画。
・北ベトナム軍は精神論ではなく、徹底した戦力比較と情報戦を基盤とした合理的な戦略に基づいて作戦を遂行。
・北ベトナム軍は南側の戦力予測を逆手に取った奇襲と偽装作戦を展開し、圧倒的な兵力でバンメトートを制圧。
1975年3月10日に南ベトナム中部高原の省都バンメトート市を攻略した北ベトナム軍はその時点でどんな戦略を抱いていたのだろうか。
すでに述べたように、北ベトナム(ベトナム民主共和国)の労働党政治局はこの年の1月のフォクロン省制圧の2日後に重大な戦略を決めていた。骨子は1975、76両年に南ベトナム制圧の大軍事作戦を実施することだった。このあたりの実情は戦後まもなく公表された北ベトナム人民軍参謀総長のバン・チエン・ズン将軍の回顧録に詳述されていた。その作戦は1975年には中部高原を中心とする大規模な軍事攻勢を展開し、うまくいけば翌76年にはその余勢をかって南ベトナム全域にわたる総攻撃を断行し、南の全土を制覇するという計画だった。ただしその計画には機会さえ訪れれば、予定を早めて1975年中にも南ベトナム全土の制圧を目指すという付記もついていた。
北ベトナムにとって1月冒頭のフォクロン省の制覇はアメリカの出方をみきわめるという目的が大きかった。パリ和平協定の米側の責任者のリチャード・ニクソン大統領は1974年8月にウォーターゲート事件により辞任していた。しかしその後任のジェラルド・フォード大統領がベトナム再介入という決断を下す可能性も完全には否定できなかった、ということだろう。だがアメリカは動かなかった。
その結果、北ベトナムの労働党政治局は重大な戦略的決断を下した。フォクロン省制圧の2日後の1975年1月8日に下された決定だった。その内容は前記のように1975年、76年の両年で南ベトナム制圧の大軍事作戦を展開するという歴史的な戦略だった。ただし、その時点ではまだ中部高原での攻勢を始めるというだけの決定だった。その最初の攻勢の標的がバンメトート市とされたのだった。
ズン参謀総長の回顧録によれば、北軍がバンメトートを中部高原での最初の攻撃目標に選んだ理由はこの中級都市が省都としての重要性のわりに防御が手薄なことだった。南ベトナム政府軍は同じ中部高原でもバンメトート市の北200キロほどのプレイク、コンツム両省を伝統的に戦略的な要衝とみなし、その両省の防衛を強化してきた。北軍も過去において1972年春季大攻勢の際のようにプレイク、コンツム両省への攻撃を実際に激しく断行した実績があった。だが当の南ベトナム側もこの時点での北軍の中部高原での大規模攻勢は予測していなかった。ましてバンメトート市への集中的な攻撃は計算に入れていなかった。当時の南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は1974年末には以下のような読みを固めていた。
「共産側は1975年には南の省都を正面から大規模攻撃をするような動きにはまず出ないだろう。当面の目標はサイゴン北方のタイニン省あたりであり、その規模も大規模ではなく、時期も2月から雨期の始まる6月ごろまでの間だろう」
だから75年3月の中部高原での大攻勢は予期していなかったわけだ。北ベトナム側は南のこの読みまでをも察知していた。だからバンメトート市への奇襲が成功する素地はますます大きかったということである。
南ベトナム軍の中部高原を担当する軍区は第2軍管区とされていた。当時のその軍管区の司令官はファム・バン・フー将軍だった。このフー司令官も万が一、北軍の中部高原での攻撃が開始されれば、必ずプレイクとコンツムが標的になるだろうと判断していた。その判断を北軍のズン参謀総長は把握していたのだ。
ここで北ベトナム人民軍の基本戦略の特徴について説明しておこう。ベトナム戦争での革命側の軍隊の戦い方といえば、ゲリラのような勇猛果敢な戦士たちが人数でも装備でも優位に立つアメリカ軍や南ベトナム軍を相手として獅子奮迅の闘争を挑む、というイメージが日本などでも強かった。物理的に劣勢の革命戦士たちが強固な精神力や士気で強敵を倒す、という図式である。一騎当千の革命闘士たちという構図でもあった。
だが現実は異なっていた。革命側のゲリラが圧倒的に数の多い南ベトナム政府軍に敢然と戦いを挑むという場面も一部ではもちろんあっただろう。だがズン参謀総長の回顧録が明らかにした北ベトナム軍の基本戦略はそんな精神力重視策とは正反対だった。彼我の戦力を事前に冷静に比較し、最後の最後まで物理的な優位を確実にしたうえで、攻撃を実行するという戦略だった。冷徹に合理的に、味方と敵の戦力比を3対1,あるいは5対1という圧倒的優位を確立したうえで、初めて攻撃に踏み切るという現実的な戦法だったのだ。
ズン回顧録はその戦略を物語るエピソードをも紹介していた。バンメトート攻撃案の大枠が決まった1975年1月の後半のハノイでの中央軍事委員会で攻撃案の最終部分が円滑に決まらないときがあった。すると難航する会議の場に、突然、ドアを開けて、労働党団程度政治局員のレ・ドク・ト氏が入ってきて、大声で叫んだ。「南の中部高原では敵の2個師団程度の兵力に対してわが軍は5個師団ほどを配備している。それでもバンメトートが攻略できないとは、どういうことか」――労働党の最高指導者に近い人物からのこの言葉に軍事委員会は一気に決定へと進んだという。あくまで彼我の戦力の数量的な差が重要だとする思考なのである。
その後すぐにズン将軍自身もバンメトート攻撃の最高司令官として「バンメトート周辺では歩兵ではわが軍の5.5に対して敵は1、戦車、装甲車は1.2対1,重砲は2.1対1と圧倒的な優位に立つことができたため、攻撃の最終決定を下すことができた」と回想していた。
ズン将軍がバンメトート攻撃の最前線での指揮のために首都ハノイを離れたのは1975年2月5日だった。ズン将軍はふだんはハノイに常駐し、人民軍全体を統括している。だがこの際は北ベトナム南部のクアンビン省の視察という名目でのハノイ出発だった。
しかしその数日後には国営の通信社や新聞はみなズン将軍がハノイでの公務に戻り、ふだんの専用車のソ連製ボルガに乗って、自宅と参謀本部の間を往来しているという報道を流していた。国家をあげての偽装作戦だった。現実にはズン将軍は南北を分けるベンハイ川を秘密裡に渡り、南ベトナム領内に潜入して、チョンソン山脈東部の戦略道路をひたすら南下したのだった。
ズン将軍は2月中旬には南ベトナムの中部高原に到着した。さっそくバンメトート市の西の鬱蒼とした密林の奥に総指揮所を設置する。像の群をのみこむほどの樹木の密集した密林だったという。
この時点は前述のように、南ベトナム軍側は北軍がもし中部高原で攻撃に出る場合はバンメトート市よりは北のプレイクかコンツムを標的にするだろうとみていた。ズン将軍はこの南側の読みに対して、それを助長する偽装、陽動の作戦を進めた。まずプレイク周辺の南側の基地数ヵ所に小規模な攻撃をかけた。プレイク周辺の住民を動員して、道路の補修工事や革命勢力歓迎の集会の準備までを実行させた。その間、北軍の主力部隊はバンメトート地域へとひそかに移動していった。
南ベトナム軍も疑惑を抱き、3個大隊ほどを投入し、バンメトート市から10キロほどの山林地帯で索敵活動を始めた。その近くに隠れていた北軍の歩兵、砲兵、工兵、戦車隊はすばやく後退して、身を隠す。南軍が引けば、また前進する。壮大な隠れん坊のような動きが繰り返された。
北ベトナム軍はバンメトートをめぐるこの知力と策謀の戦いに勝利を収めた。3月10日午前2時、攻撃開始の命がくだった。森林が砲撃の轟音に震えた。突撃部隊が敵の基地へ、飛行場へ、補給所へ、そして市内へと突入していった。戦車隊は前もって半分、切ってあった森の木々をなぎ倒して突進した。守備隊の兵力を数倍も上回る奇襲攻撃はみごとに功を奏した。南側の守備隊の第23師団司令部や省長の官舎、警察本部などの拠点が次々に制圧された。
「散発的な抵抗を除いて戦闘はおおむね終了!」
市内外の戦闘部隊からズン将軍の指揮所にこんな報告が届いたのは翌3月11日午前10時半ごろだったという。
(その15につづく。その1、その2、その3、その4、その5、その6、その7、その8、その9、その10、その11、その12、その13)
トップ写真:サイゴンを襲った最初のロケット攻撃 1975年4月21日
出典:Photo by Jacques Pavlovsky/Getty images
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この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授
産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

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