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.国際  投稿日:2025/6/6

ベトナム戦争からの半世紀その16 南ベトナム側の中部高原放棄の理由


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)
「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・南ベトナム政府は、アメリカの支援が望めない中で、防衛を人口密集地に絞る方針を立てていた。

・政界関係者や米大使の証言からも、中部高原を犠牲にして戦力を温存する動きが進んでいたとわかる。

・最終的にチュー大統領が撤退を命じ、プレイクとコンツムは戦わずして放棄された。

 

なぜ南ベトナム政府軍は中部高原の最要衝のプレイクとコンツムを戦わずして、放棄したのだろうか。この問いへの答えはベトナム戦争の終結の真相という歴史の核心にまでつながっていた。

プレイクとコンツムといえば、長年にわたり、ベトナム戦争の主戦場だった。最激戦の地でもあった。この二つの中級都市は中部高原全体の支えだった。1972年の春季大攻勢でも北ベトナム軍の激しい攻勢が10ヵ月にもわたり、コンツムに仕掛けられた。砲撃、歩兵の突入、戦車隊の進撃が連日のように起きた。だが南ベトナム軍は米軍の空からの支援があったとはいえ、みごとに防戦しきった。プレイクにも北軍の同様の攻撃がかけられたが、南軍は守りきった。その間におびただしい量の血が流れ、命が失われた。

 

アメリカ軍の地上部隊が南べトナムに駐留していた時期もプレイクとコンツムは激戦地となった。革命側がゲリラではなく、北軍の正規部隊を投入して、米軍に本格戦闘を挑むのも中部高原であり、その中心はプレイクとコンツムだった。1968年の北側のテト攻勢でも同様だった。そんな中部高原の両要衝が今回は直接の戦闘もないままに放棄されてしまったのだ。南ベトナム側はいったいどんな考えからそんな事態を許したのか。

その理由を示す証拠はいくつか指摘できる。

まず第一は私自身がかつてサイゴンで南政界の長老のチャン・バン・ド元外相から聞いた説明だった。ド氏はチュー政権とは一定程度の距離をおいていたが、なお政府や軍部の高官たちとは接触があるようだった。ド氏からこの中部高原の要衝放棄に関する話を聞いたのは、実際にそんな事態が起きる2ヵ月ほど前の1975年1月中旬だった。

その時点では北ベトナム軍がサイゴン北方のカンボジア国境沿いのフォクロン省の省都フォクビンを制圧し、南側のチュー大統領がとくに反撃をしないことが暗い空気をサイゴンに広めていた。ド元外相はその時点での南と北の軍事態勢をくらべ、悲観的な見通しを語った。そしてその過程で思わず、あっと驚くような展望を述べたのだった。

「わが国はやがては北ベトナムからまた全面的な軍事攻撃を受けるときが必ずきます。その際にはアメリカの再度の軍事介入はもう絶対に望めない。アメリカからの軍事援助も少なくなる一方です。他方、共産側の北ベトナムはソ連、中国の両方から支援を得て、軍事能力は強くなるばかりです。そんな暗い見通しをなんとかするために『南ベトナムの一部切断』という大胆な対応策も考えられます」

ド氏はフランス語なまりながら流暢な英語でこんなことを語り、私を驚かせた。私はもちろんその「一部切断」とはなにか問いただした。ド氏は一瞬、ためらいながらも言葉を継いだ。

「こんな見通しではわが政府がいま支配している地域すべてを軍事的に防衛することが難しくなる。それならいっそのこと手遅れにならないうちに防衛の難しい北部の第一軍管区や中部高原の第二軍管区を放棄して、より重要な地域に防衛力を集中したほうがよいかもしれない。南ベトナムの長期的な生存や安定もその方法ならば可能になると思います」

 

つまりド氏はベトナム共和国の防衛圏を首都サイゴン周辺の第三軍管区とその南の自然資源豊かなメコンデルタの第四軍管区に縮小し、集中し、強化を図るという案を語ったのだった。彼はこの大胆な生存策が単に自分自身のアイディアなのか、あるいは南ベトナムの政府や軍部のだれかがすでに着手した計画なのかは明らかにしなかった。だが振り返ってみれば、だれかがすでに考えついて、手をつけ始めた計画だったように思える。

 

実際にその翌月、私はサイゴンで一部のベトナム人記者たちが未確認の情報として次のように語りあうのを聞いた。

「チュー大統領はオーストラリアの軍事専門家に依頼して、ベトナム共和国の遠隔地域を放棄し、人口密集地域の防衛を強化する新戦略の研究を進めているようだ」

南ベトナム政府の中部高原放棄の理由についての第二の根拠は戦争が終わってからワシンントンで明らかにされた。南ベトナム駐在の最後のアメリカ大使となったグラハム・マーチン氏が1976年1月のアメリカ議会下院の公聴会で南ベトナムの崩壊について証言した。そのなかで以下の趣旨を明らかにしたのだった。

「南ベトナム当局が1974年8月ごろから非常時の際には軍事、経済で非生産的な地域を捨てて、最重要な中枢地域の防衛にすべての力を集中するという計画を真剣に研究し始めたことを私たちアメリカ側は知るようになった。北部の第一軍管区、中部の第二軍管区を放棄して、南部の豊かな地域だけを防衛するという案だった」

マーチン氏はこんな趣旨を証言して、その背景説明として当時の南ベトナム高官たちの思考を以下のようにまとめて証言した。

  • 南ベトナム政府は現有の軍事力、および今後の現実的な見通しに基づく軍事力ではもう現在の支配地区全域を防衛することはできないと判断される。
  • 北ベトナムが全面攻撃をかけてきた場合、南ベトナムはもはやアメリカの援助には依存できない。和平協定の際にはそういう事態でのアメリカの援助は約束されていたが、いまはもう期待できない。
  • 過去10年の南ベトナムの社会や経済の変化はそうした切断によって起きる政治的危険性を最小限に抑える新しい潜在能力を産み出した。

 つまりは南ベトナムの領土の一部の放棄はたとえ一部の政府や軍部の当事者たちの間だったにせよ、考慮されていた、ということなのだ。だがその決定を最終的に下すのは南ベトナムの最高権力者のグエン・バン・チュー大統領だったことは明らかだったといえよう。

 

 さて当時の中部高原放棄の理由について、さらになまなましい資料が存在する。第三の根拠である。中部高原の放棄が明らかになった3月15日の前日の14日、中部海岸のカムラン海軍基地で南ベトナム首脳の会議が開かれた。カムランはプレイクの第二軍管区の司令部が移動した先のニャチャンのすぐ南35キロほどの海岸の要衝だった。このカムランで南ベトナムのチュー大統領、チャン・チエン・キエム首相、カオ・バン・ビエン参謀総長、ファム・バン・フー第二軍管区司令官らが集まる最高会議が開かれた。当時の南ベトナムでは大統領も首相も現役といえる軍人だった。だからこの会議は最高レベルの軍事協議だといえた。

 

この会議で以下のようなやりとりがあったのだという。

 チュー大統領がビエン参謀総長に問うた。

 「第二軍管区に増援としてなお送れる予備兵力はあるのか」

 ビエン参謀総長は「ありません」と答えた。

 するとチュー大統領は第二軍管区のフー司令官に質問した。

 「もし増援部隊がないとすれば、いまのままで第二軍管区はどのくらい期間、防衛を持ちこたえることができると思うか」

 フー司令官は答えた。

 「最大限の空爆支援と十分な空輸物資、それに最近のひどい損害を補充する兵員を得られるという条件ならば、1ヵ月間は防衛できます。私はプレイクに留まり、死ぬまで戦います」

 チュー大統領はそれに応じて延べた。

 「そういう条件はかなえられない。共産軍は強力な攻撃を続けている。だからわれわれはわが軍を温存してデルタは海岸地区の防衛に向けるため、プレイクやコンツムから撤退しなければならない。そうすれば補給がずっと容易になる」

 

 以上の重大会議でのやりとりは実は北ベトナム軍人民軍のズン参謀総長の戦後の回顧録に記録されていた。中部高原の戦闘で北軍は南軍第二軍管区のレインジャー部隊のファム・ズイ・タト大佐を捕虜とした。そして厳しい尋問をした。その結果、タト大佐が直属の上官だったフー第二軍管区司令官がカムランで開かれた首脳会議に出てすぐ、まだ残っていたプレイクに戻り、タト大佐に会議の内容を詳しく伝えたというのだ。そのタト大佐から得た情報を北ベトナム軍首脳はその時点では信用したということだった。

 

(その17につづく。その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12その13その14その15,その16:本記事)

 

トップ画像:Bettmann by gettyimages




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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